日本で初期研修後当初の計画通りに緩和医療を学ぶためにイギリスに渡ったのですが、

     何も勝算があったわけではないのです。

     行けば何とかなるだろう、と言う浅はかな気持ちで…。

 後ろ盾もなく単身彼の地に至り、次第にはっきりしてきたのは私が最も恐れていた一番難しい方途を選ぶしかないということでした。

 植民地を多く抱えていたイギリスにはWHOが認定する医学学校を卒業しその国で医師免許を修得した医師に対して

 近道でイギリスで医師免許を獲得する道が開かれています。

新たにイギリスで大学に行く必要はありませんが、近道とはとても言えない難路でした。

まず、語学試験から始まります。日本でも受験可能なILETSと言う試験で読み、書き、聞く、話すの4部門について9点満点の7点以上を獲得しなければなりませんでした。

  (いつもなぜに満点が9点なのだろう?と考えていたのですが…)

そしてその後に筆記試験続いて実技試験と。

この3関門を突破してイギリスの医師免許にたどり着けるわけですが

その合格率、20%弱と言うもの…。

 語学試験についてはスコアの保存などはきかず、一度の試験で4部門十分なスコアを記録しなければなりません。

 一度失敗すると、3か月間は受験が許されず、この時期が一番大変でした。

一度目の挑戦で、読み、書き、聞くいずれもスコアを満足したのに、話す部門だけで6点、再受験となってしまいました。

それ以後呪われたようにいずれかの1部門でスコアを満足できず、都合5回目にして漸くに合格することが出来ました。

  不合格になるのはやはり、話す、聞く2部門になることが多かったので、合格に至るまで特にこの2部門に特化して対策を立てることとなりました。

まず地元の音楽学校の校長先生にボイストレーニングをお願いしました。

   日本人の口先の発声では聞き取りにくいと言われたので、のどの奥から発声できるよう訓練していただきました。

    (訓練を受けながら、マイフェアレディみたいと思いましたが、容貌の点ではオードリー・ヘップバーンには似ても似つかないか、とも考えていました)

 訓練の御蔭で発声は随分変わったようで、外国人の方に『あなたの日本語はききとりやすいね。』と言っていただけます。

    しかし、残念ながら話すのは今もサ行の濁音とタ行の濁音の区別がついていない紀州弁です。その部分の矯正はできなかったみたい…。

次に話す機会を増やそうとお店で販売員の仕事を無給でしました。

  (学生ビザ、旅行者ビザでイギリスに行っていたので、給料をもらうことはできなかったのです)

イギリスのラジオ放送BBCは24時間流しっぱなし…。

更にディベイトクラブの催しにできる限り参加しました。

このデイベイトクラブの催しでとても興味深い経験をしました。

そのことについてこれから話そうと思います。

前置きが長くなってしまいました。

  

 

                  多分、ハイデルベルク?自信ありません…すいません。

デイベイト、日本人にとっては余りなじみのないゲームかもしれません…。ご存じの方もいらっしゃり、釈迦に説法かとは存じますが、私の理解の範囲で簡単に説明しますと…

  ある一つの主題についてyes,noの側に分かれ、いかに自分たちの主張の論理性で聴衆を説得することができるか、を争うことになります。

  yes noはあらかじめ決まっていることもありますが、多くの場合は本人の主義、主張に関係なくコイントスで決められていました。

 1つのチームが一人の時もありますし、2人、3人で構成されている時もありました。

 yes,noの側が決まると戦略を立てるための、5分ないし10分ぐらいの時間が与えられ、聴衆の挙手でどちらの側の意見が多いかをまず調べます。

 そして試合の開始です。

   時にはキツネ狩りを廃止すべきどうか、などのイギリスらしいトピック問題も登場していました。

  ほとんどの場合は大学のクラブの学生の活動なので、大きな階段講堂の講義室に20人から30人程度の聴衆で手を挙げることも恥ずかしくなるくらいでした。

ところがある日、いつもの講堂に足を運んだ私達はびっくりしたのです。その講堂に空席を見つけるのが大変なほどにぎっしりと聴衆が詰めかけていたのです。

 私達と書きましたがその時に行動を共にしていたのは私を含めて日本人の女学生3人(私の当時の年齢で女学生と言えるかどうかは突っ込まないでください)

   と某国人の男子学生一人。

  この彼がなぜに私達と行動を共にしようとしてくるのかは当時私達の疑問だったのです。私達も英語に問題を抱えていましたが、彼は私達よりも大きな問題を抱えていました。私達よりも年齢も若く、世間慣れしていないのも理解できましたし。でも寄って来る者に離れろ、と言うわけにもいかず、なんとなしに行動を共にしていました。

その日のテーマは「the abolishment of capitalism(資本主義は廃止すべきか)」についてでした。

そしてこの日に限り聴衆が一杯だったのは、スピーカーの一人がアーサー・スカーギルだったからです。

 と偉そうなことを書いても、この時私も彼の名前を知らなかったのですから威張ることはできません。

  彼は炭鉱労働者の息子として生まれ、中学を卒業後父と同じ職に就いたのです。

  そして「鉄の女」マーガレット・サッチャー首相の政権下、イギリスの全土の炭鉱労働者のストライキを指導した生きる伝説の人物だったのです。

  もちろんスカーギルは資本主義は廃止すべきであるとする側、yesの側です。

  そして彼の対戦相手は地元新聞社の主幹編集長、彼がnoの側です。

最初に聴衆に採決を求めると圧倒的にスカーギルが不利でした。

いよいよ戦いが始まりました。

そして、私はスカーギルの偉大さを目の当たりにすることになりました。

 声のトーンをコントロールし、ある時はやや大きな声で、ある時はささやくように、ある時は早口で、ある時はゆっくりと語り掛けるように

身振り、手ぶりも完全に計算され、指先の端に至るまで彼の主張の正しさを伝えるために働いています。

 唯一、弱点と感じたのは資本主義の代替制度を提示できないことでした。しかしそれすらもとるに足らないことと感じさせられました。

対し、相手は十分に学識のある方でしたが、最初からスカーギルの名前に押され、劣勢に立ち、善戦はしようとも感じられるのはスケールの違いでした。

試合は終わり、最終の採決の時間となりました。

結果は…

 スカーギルが1票差で負けました。

最初の結果から考えると、大変な善戦でしょう、でも彼が結果に不本意なことは察しられました。

ところが、ここから私は興味深いことを経験したのです。

  三々五々会場を後にしていた私達に件の男子学生が話掛けてきました。

「君たちは資本主義の日本と言う国から来ているのにどうして、資本主義に反対する方に手をあげたの?」

私達は三人とも資本主義は廃止すべきではないと、noの方に手を挙げたのです。

そしてその時に彼も手を挙げている事に私は気が付いていました。そして心の中で彼の挙手に『?????????』

でも前述の言葉から察するに彼は資本主義に反対する方に自分は手を挙げた、と主張しているのです。

なぜこの齟齬が起きたのか?

ここからは私の解釈です、彼に確認したわけではありません。

彼は英語力がやや不十分でした、で、abolishmentの意味を理解していなかったのではないか
彼は今日のテーマをcaptalismにyesかnoかを聞かれていると理解していたのではないか、

で、彼はnoに手を挙げたのではないか?

abolishment(廃止)と言う言葉が就くことにより、テーマは全く逆の意味となってしまうのです。

英語力の不足ゆえに、そのことに彼は気が付いていなかった。

そして結果、彼の本来の主義とは反対する結果に挙手することとなった…

もし彼がテーマの意味を正しく理解していれば…

結果は…

noから1票が減り、yesに1票が加わり

勝利者は…

これはknightshayesと呼ばれる建物に付随した庭で、織物で財を築いた一族の邸宅です。

私が写真を撮っているのは建物内から。主は建物内の同じ位置より街を見下ろし

彼の工場が無事に稼働しているかを毎日確認をしていた、と主人が説明してくれました。