いつしか生きる支えとなっていた
夢をやはり諦めることはできないと決心したものの
全く白紙に戻っている計画を一体どこから立て直していけばいいのか?
収拾の簡単につきそうにない事態に出発は数か月遅れるだろうと考えざるを得ない状況でした。
既に日本通運により30箱近い段ボール箱が日本を出発していました。
まずこれらの引っ越し荷物をどうするか?
考えに考えた末に日本通運に電話を掛け、イギリスに保管した場合の手数料とイギリスから日本に呼び返した場合との費用の概算を教えて頂きました。
明らかにイギリスでの保管を依頼することの方が廉価となるとの答えを頂きました。
で、送付した荷物問題は一応の落ち着きを見せ、次なる問題です。
で、イギリスへの留学方法の検討でした。時は7月。
『既に夏休み。そして次の年度は9月に始まるだろう。おそらくこのタイミングと期間の短さでは大学を足掛かりとした渡英はむりであろう。』
それが私の認識でした。
別な方法を…。大学よりはるかに簡単に…と考えればそれは語学スクールを足掛かりとした留学と考えられました。
イギリスの語学スクールの情報を得るため、
そして今回のシェフィールド大学との行き違いの理由を探し出すため、
更に可能であればシェフィールド大学の状況を改善するため、大阪のさる組織に足を運びました。
シェフィールド大学の名前を知ったのもその組織が主催したイギリスに留学するための大学フェアでした。
まずシェフィールド大学の件については組織は全く責任がないとの主張で、問題にかかわりたくないとの雰囲気が強く感じられました。
確かに大学とのやり取りは私が直接メールで行っていました、その点から考えると彼らの主張は正しいのかもしれません。
しかし彼らを通してその大学のことを教えられたことを考えると
当方に全く責任がないとの彼らの言には肯んじえないものがありました。
しかし、問題山積みの状況にそのことで争っている暇はありません。
とにかく得られる限りの語学スクールの情報を集め、そのすべてにメールを送り、
語学スクールと大学との連携度合い、ロビンスとともに住むためのアパートの賃借に力を貸してくれるかどうか、何か関連する講座を情報を有しているかどうか、
等々を試金石として語学スクールを探していきました。
そして出発が遅れている間に少しでも資金をと、医師としてのアルバイトを開始しました。
個人的に知り合いの病院も助けてくれることになり、併設の老人病院の医師として雇い入れてもらえたのは大きな助けとなりました。
その病院に和歌山の自宅から通い、仕事が終わる夕方にロビンスが消えたもとの居住地に足を運びました。
しかし彼の情報が得られない日々。夜遅く疲れ切って家に帰らなければならない日が続きました。
そんな時、時折足を運んでいた天神橋商店街の中にある寿司屋さんが
『チラシを持ってきて。お客さんにも声を掛けてあげるから。』
と声を掛けて下さいました。嬉しかったです。
失望のみが続く日を繰り返して、
ある日いつものように薄暗くなった頃にアパートにいきました。
すると彼の尾の先らしき白い毛が元のアパートを取り囲む生垣の隙間から出ていたのです。
『ロビンス?』
と声を掛けると…。
生垣の下から彼が姿を現しました。
その場で上を見上げれば、私の暮らしていた部屋が真上に見えました。
多分間違えてアパート降りてしまって、そのままアパートを見上げることが出来るその生垣の中に隠れて彼なりに元の部屋に戻る方法を考えてたのでしょう。
彼はキャリーが大嫌いでした。
私がキャリーを持ち出すときは獣医さんに連れていかれる、誰か、或いはどこかに預けられる時でしたから。
で、毎日彼を探しに行くときキャリーを所持していませんでした。
キャリーを見れば彼が姿を現さないだろうと考えられましたから。
当然その時もキャリーは所持していませんでした。
で、アパートの一階にあったドラッグストアに飛び込み、段ボール箱を分けて頂きました。
そしてその段ボールに彼を放り込み、飛び出さないようにふたを閉めてそのまま店頭からタクシーを呼び留めました。
そして段ボールを胸に抱えたまま
大阪の天神橋商店街の近くから和歌山の自宅に向かってタクシーを走らせました。
大阪の灯りが後ろに飛んでいきます。それとともに京都、大阪で味わった悲しかったこと、辛かったことから体に残った芥も飛んでゆくような気がしました。
母親が亡くなった33歳の時に疲労のあまり居眠りから追突事故を起こし、
それ以後車のハンドルは握っていませんでした。
夜半、大阪からタクシーを走らせると見慣れない道が出てきます。
12年間と言う時の長さを今更ながら感じました。
紀ノ川を無事に渡り終えた時に帰って来た!と実感がこみあげてきました。
運転手さんの許可を得て箱からロビンスを出すと
泣きながら頭をこすりつけてきます。
寂しかったと必死に訴えているのか、それともお腹が空いたと訴えているのか、
物言えぬ生き物の悲しさ…。
タクシーの運転手が『すごく大事にしている猫なんだね。』とおっしゃいました。
道に不慣れなタクシーの運転手に不安は感じつつも迷いながら何とか自宅に帰りつきました。
とりあえず段ボールのまま彼を自宅に運び込み、タクシーの運転手に代金を支払いました。
私も疲れ切って敷いたままの布団に潜り込むと彼も布団の上に横になりました。
『やばい、またダニ問題が起こるかも。』
でも必死にすり寄ってくる彼を布団から引き離すこともできず
そのままその夜は休みました。
それ以後図らずも物事はうまく運ぶようになり、
予想よりも早く10月初旬とうとう私たちは日本を離れることとなりました。
前回用意した同じ手順で彼はJALに載せ、私はシンガポール経由の飛行機でイギリスに出発しました。
この時に学生ビザのために私が所持していたのはもはやシェフィールド大学の書類ではなく、
エクセターと言う町の語学スクールからのものでした。
そうしてイギリスでも私の苦労(?)は続いたわけですが、
目鼻立ちが付き始めた頃、ある日の早朝ロビンスは心臓の発作で全く突然亡くなりました。
イギリスにおいて荼毘に付し、アッシュ(灰)として壺にできる限りを詰め日本に持ち帰りました。
そして彼は今現在の家の庭の片隅に眠っています。
でも一点だけ…。
ある晩の夢に母が現れ、
『ロビンスが今こちらにいるのだけれど、そちらに戻せ。
とうるさいので近いうちにそちらに返すわね。』
と言いました。
今度私の前に現れるとき彼はどんな形で現れるのでしょうか?
このわずかに白い尾の先が彼を見つける手掛かりとなりました。
これは偶然亡くなる3日前に撮られた写真です♪