京大医学部の二回生の時に父が肝臓の破裂で亡くなり、私は思いのほかに強いショックを受けました。

母の死の前後から父との関係は破綻しており、母の死後一年間口を利かないことが続きました。

父に暴力を振るわれたとかいうことはなかったのです。

母を亡くした寂しさを私を母の立場に置き換えることで埋めようとしてきた父が許せませんでした。

とは言いつつも自身の余命を知ってしまった父が再婚を企図して連れてくる女性を次から次へと追い出していったのも私でした。

母の一周忌を待たずして、代わりの女性を希望する父を理解できなかったです。

今年、丁度父が亡くなった同じ年を迎え、

『寂しかったのだ。病気のみならず迫りくる老いの中で人生を寄り添って過ごしてくれる人を求めただけだったのだ。』

と父の心を慮ることが出来るようになってきました。

しかしあの頃、独身ゆえに男女の関係に対する潔癖感も手伝い、父を皮肉な目で眺めていました。

そんな私に対して、父も私の心の狭量なことを責めてきました。

そのような葛藤の中での父の死は思いもかけないショックを私に与えました。

京都、和歌山の二度の葬儀、もともとすべてのことを一人で行いつつの医学部での学業でしたので、

和歌山の葬儀後、京都に帰り過労からそのまま入院することとなってしまいました。

学業ゆえに父の看病もおろそかになった様に思われて、医学部をやめようかと悩み、

『その自身の経験を踏まえて医療を行って行け。』と励ましてくれた看護師の方の言葉に涙を流し、

学業を続けてもいいのだと、自身を許すことが出来ました。

父の死後父に預けていた財産も手元に戻り、若干ですが父の生命保険も支払われ、建物のローンも清算し、

学業に大きく舵をとることとなりました。

そうなるとやはり気にかかってくるのは緩和医療であり、ホスピスの実態でした。

大学の4回生の時に4か月の自主研究期間が与えられることが分かっていました。

その準備として3回生の時に社会保障が充実している北欧の現状を自身の目で見たいと思いました。

しかし残念ながら、ノルウエー語もスウェーデン語もフィンランド語も話せません。

と言うわけでツアーのパッケージ旅行を利用しようと考えました。

その時のツアーの途上で起きたことです。

ある日私達の乗った飛行機はオランダからノルウエーに飛行していました。

すると突然、機内アナウンスが入り、近くの空軍基地に緊急着陸すると説明されました。

飛行機と申しましても本当に小さい飛行機でしたので、緊急に軍用基地に着陸できたのでしょう。

飛行機が着陸するとすぐに一人の乗客の方が担架で運び出され、すぐにヘリコプターに運び込まれ、飛び立っていかれました。

もう一人乗客の方が懸命に診察されていました。

緊急に治療を要する心筋梗塞などのために乗客の乗った飛行機を予定にない空軍の基地に下ろし、人命を最優先にすると決断されたのでしょう。

しかし検査機器も何もない飛行機の中で自身の聴診器一つを手掛かりにその大変な決断をされたことに強い尊敬の念を感じるとともに

さぞかし大変なストレスであったでしょう、と学生の身ながら自身がその決断をできるほど自身の診療の技術に磨きをかけることが出来るのかと不安に感じました。

日本からイギリスから飛んでいる飛行機の中で同じ事態が起きたとしてシベリアの上空、

この状況下あえて飛行機を下すのか、でも下ろさなかったとしたら心筋梗塞に対して有効な治療ができるゴールデンタイムが過ぎてしまいます。

何が最良な答えか、私には見出すことはできませんでした。

ただ後に分かったことですが私達のツアーのメンバーの中に実は日本人のお医者様がいらっしゃいました。

そして彼がとった行動は…

私には何も言えません。同じ状況で私も何が正しいのか、決めることはできなかったのですから。

せめて未熟ながらも機内でドクターコールがあった時には最低限応えたいと思いました。

イギリスと日本を行き来している間に二度機会に遭遇することとなってしまいました。

その時にはいつもこの経験の記憶がよみがえり、怖い、逃げたいと思う気持ちがまず湧き上がりました。

応えることは義務ではないのですから。

勿論私はキリスト教徒ではありませんが、その時 『善きサマリア人』の言葉よみがえりました。

幸いなことに二度ともに機中でアルコールをきこしめされた結果、血圧が少し下がっただけだったので。

ほっとしましたが…。

今はイギリスと行き来することも少なくなり、イギリスで修得したドクターのライセンスも失効してしまいました。

でもやはり医師、その根源たる『善きサマリア人』の理念だけはいつも心の中に留めておきたいと思います。