私が36歳にして医師になる決心をすることとなった母の死について少しづつ書いていこうかと思います。
かなり長文になると予想されますが、お付き合いいただければ嬉しく存じます。
「美智子、おばあちゃんの手を引いてあげなさい。」
母の声が聞こえた、と私は思った。そして周りを見回す。どこにも母はいない。粗い舗装の上り坂はだらだらと墓地へ続く。道幅は車が上るのに精一杯で、車が近づけば人は傍らに道を譲り、通り過ぎるのを待たなければならなかった。見上げれば道の両側に広がる木の葉の間より木漏れ日が輝き、蝉時雨が降り注ぐ。私は道の端に立って車をやり過ごした。前に視線を向けると、きらきらと輝く青い海が見える。亡き母がこよなく愛した海だった。
坂道を上る時、母はいつも私に声をかけた。促されて私は遅れて坂道を登る祖母のもとに駆け降りる。今、墓に捧げる花を抱えながら同じ道を辿る私の傍らに母も祖母もいない。母の死から既に三十有余年。その十年余り前に祖母も泉下の人となった。今もこの坂を上るたびに母の声は響くのに、振り返っても祖母はおろか、母の姿もない。代わりに長身のはしばみ色の目のイギリス紳士が不意に歩を止めた私を気遣う様に傍らに寄り添い、体を支える。乳癌の化学療法のために衰えた体で一歩一歩坂道を上る私に彼は常よりも歩幅を狭めゆっくりと手を引きながら坂道を上る。その心遣いをありがたく感謝をしつつも、手を引く側から引かれる側に変わってしまった自身の身を悲しく思い、時の流れを嘆く私がいる。
「アイアムオーケー。ドントワリイ。(私は大丈夫よ。心配しないで。)」
彼との生活も長くなり自然に英語で応えながら、私の心はやはり両親と暮らした日々を懐かしみ、彼ら在りし日に帰って行く。母の直腸癌は昭和63年に発見された。それからの母の死までの闘病期間はわずかに二年であった。その二年間は母のみならず、父の運命も私の運命も大きく変えてしまった。ある日、昼食の後に気分が悪いと横になっていた母はそのまま下血した。異常な状況と考えた母は看護師として働く実姉に電話連絡を取った。その日のうちに叔母の勤務する病院に受診が手配され、叔母の力で検査も即日に行われ、診断はその日のうちにほぼ確定された。直腸癌であった。私たち家族の運命が暗転した瞬間であった。昼食を食べる前はどこにもいる普通に幸せな家族であった。しかし短い食事の時間の後に私たち家族の運命は食事前と全く異なっていた。貧より身を起こし、幸せな家族を夢に見、家族で共に力を合わせ、夢を手にすること、不幸をはるか、はるか後ろに押し返す事をのぞんだのに、不幸は私達の背のすぐ後ろにいた。私たちは強い虚しさに襲われた。しかし歩き続けなければならなかった。
母の死は平成2年2月19日、午後7時10分のことであった。死因は直腸癌からの転移性脳腫瘍。その前年の7月に転移性脳腫瘍は発見された。直腸癌からの肺転移、そして脳への転移。私達が向き合わなければならない事実は心の奥深くで秘かに恐れていたものよりもはるかに過酷なものであった。父は母の命が限りあるものになったという事実を受け止めることはできそうになかった。母の命が少しずつ終わりに近づく瞬間を、砂時計が確実そして休みなく落ちていく時を耐えていくことは彼にはとても期待できなかった。私はこれからその時間を一人耐えていかなければならないのだと、医師の言葉に体を震わす父を傍らに感じながら覚悟を決めた。医師から病名等や現況を説明されてもそれが何を意味するのか父は理解することを拒否した。肺転移は既に両方の肺を冒し、しかもそれぞれの肺に存在する病巣は単一のものではなかった。脳脊髄液の流路が腫瘍のために閉塞された状況で脳腫瘍は発見された。脳内に貯留してゆく脊髄液のために脳圧は亢進し危険域に近づいていた。緊急に脳内から腹腔内へとドレインを設置し、腹腔内に逃がす手術を行わなければ一両日の命と医師より告げられた。しかしその緊急手術を行ったとしても、脳内に癌がある状況では腹腔内に逃がされた脳脊髄液により腹腔内癌を起こしてくる可能性は高いとも説明された。そして父と私は早急に決断を下すように迫られた。自分であれば、私が理解している母の性格であれば、いかなる決定を望むのか、私は必死に考えた。考えながら、どうしてこうした事態になってしまったのか、悔しさを以てこの1年間を振り返った。