母に直腸癌が見つかった時、私は母に東京、京都、大阪などの病院を頼ろう、と強く勧めた。それに対し、母の実姉たる看護師の伯母は『何のつながりもなく頼るべき伝手もなく、京都や大阪に出たところでまともな医師にかかれるとは思わない。卒業したての経験の乏しい医師が主治医になって結局十分な治療をしてもらえないままに終わるだろう。それよりもここの病院であれば私にそれなりのコネもあるから立派な先生に主治医として治療に携わってくれるように頼むことができる。こちらに残る方がより的確な治療が受けられる。ここの病院にお願いしなさい。』と私を説得した。

 私と叔母と異なる二つの意見を前に母の希望は叔母の勧めに従うというものであった。母の決定を聞いた時、私は驚いた。当時及び過去の長い時も含めて、母は十数年前に亡くなった自身の父親がこの同じ病院で直腸癌を発見されず、適当な処置が行われないままに、退院後僅か2日にして急死したことに対して延々と恨み言を繰り返していたからである。あれほどに恨んでいた病院にどうして自身の身を託すのか、母に理由を尋ねると『遠くに行ってしまうと誰も見舞いに来てくれず寂しいから。』と答えた。母の胸にいかなる思いが去来していたのか。自身の父親同様に自分自身も直腸がんに倒れるであろうと幾度となく口にしていた母であった。自分が恐れていた直腸がんの診断にすでに戦うことを放棄していたのか。もはや自身の運命が陰りつつあることを予感していたのか、この時の母の気持ちは今もわからない。母は何の手がかりも残さずに旅立っていった。

 その後、母に内科副部長が、外科からは外科部長が主治医として決定され、そこに私達は叔母の力を感じることはできた。紆余曲折がありつつも無事に直腸がんの切除手術は行われた。約4か月の入院生活、そして退院。退院後一か月が経つ頃には寝たきりの生活から脱し、生活の活動レベルも上げ、車の運転も再開しゆっくりとしかし確実回復していくように思われた。しかしこの頃に思いがけないことが起こった。

 家業のクリーニングの配達をバイクで行っていた父が高校生のバイクに衝突され、足を骨折したのである。偶然にも事故の起きた場所は私の経営する学習塾の生徒の自宅前であった。生徒のご家族の方は救急車を呼んでくださるとともに私に連絡を入れてくださった。事故現場に車で駆け付けながら、なぜにこのタイミングでこんなことが起きるのかと思うと事故を起こした父親への腹立ちがどうしようもなくこみあげてきた。私が事故現場に到着するのと同じタイミングで救急車がサイレンを鳴らしながら到着する。ほぼ乗り捨てに近い格好で自分の車を駐車し、私は父に続いて救急車に乗りこんだ。

 そして母が直腸がんの手術を受けた病院に運び込んでくれるように救急隊員に頼み込んだ。父と母が異なる病院であれば私一人の身ではとても対処できないと判断した。私が母と同じ病院に運んで欲しいという考えから病院名を口にしたとき、救急隊員は躊躇を示した。あの病院はこの状況の患者を受け入れないだろう、と判断したのだと思う。交通事故の患者であればもっと受け入れるのに最適と思われる病院がより近距離にあった。しかし私は救急隊員に母の状況を簡単に説明し、この状況で二人が同時に倒れたら私一人では違う病院に入院した二人の患者を対処できないこと、加えて伯母の名前を口にし、その親族であることも病院に説明してほしいと主張した。

 受け入れが決まり、病院に向かって出発し始めると、父は母と同じ病院は嫌だと言い出した。元来父と母の実姉たる伯母とは仲が悪かった。伯母の影響力が強い病院に行きたくないという父親の気持ちは理解できたが、そんな父のこだわりを聞き入れることのできる状況ではないと私は判断し、父を説得した。父を連れて救急車で病院にやってきた私に伯母は驚いたが、無事に入院させることはできた。父は足の骨を骨折していた。その診断を聞いた後、入院準備をするために自宅へと帰ることになった。タクシーで生徒の家に乗り付け、車を回収して家に帰ると母親は父の事故に精神的に少しおかしくなっていた。母は何かを捜すようにうろたえて家の箪笥の引き出しを開けたり閉めたりを際限なく繰り返していた。が、母が直腸癌からの手術から退院してまだ日も浅いこともあり入院に必要な品々はまだまとめられて私達のすぐに手近にあった。入院準備は簡単に整った。それを手にし、母親を車の横に載せて再び病院に向った。