主治医は父の年齢のこと、骨折面が比較的綺麗なこともあり、手術などと言う方策をとらず切断面が自然に接着するのを待ちたいと私達に説明した。私達は治療の労をお願いした。
部屋に行くと父はまだほかの病院に行くことを口にしていた。私は状況的に無理だとはねつけ、私と母とで帰宅した。その夜、母は私の部屋に来て箪笥の開け閉めを延々と繰り返した。あまりのうるささに私は睡眠をとることができず、ほかの部屋に行ってその作業をするように言った。が、母の返事は『他の部屋では寂しいもの。』と言い訳をし、変わらずその作業を続けた。翌日、全くの睡眠不足で私は起床した。父の事故があまりにも近隣であったために、近所の人が噂で聞きつけて状況を尋ねにやってきた。学習塾の経営という自分の仕事、半病人の母親の世話、父親を病院に見舞うこと考えると目が回るほどの忙しさであった。忙しさと状況への腹立たしさに私は父親の事故を自業自得と言う言葉を使って描写し、その事を母親の大目玉で叱られることとなり、余計に気分悪く、その日を送ることとなった。その日は父の事故、入院について父の兄弟である叔父たちに連絡を取って終わった。父の交通事故は母の癌の発見に引き続いて私達家族にとっては不幸の連鎖と思われた。
しかし結果的に父の入院は母をストレスから救うこととなった。過去に電柱からの転落という大外傷のために長期間入院を繰り返し、病気に対する些細なことは流せという父親と、『私の体は鉄でできているの。』と豪語し自身の健康に絶対に自信を持っていた母。結果母は病気慣れしていなかった、手術さえすればすべてがもとに戻ると単純に彼女は考えていた。しかし現実は彼女が想定していたものとは異なった。自分の思うとおりに行かないすべてのことにいら立ち自由に動けない状況に呆れるほどに弱かった母と父との間に口げんかは絶えなかった。状況にいら立ち、自身の状況に同情的に接してくれないと母は父に不満を感じていると私に訴え、大阪の人に愚痴をこぼしていた。母の訴えに対し大阪の人はいつでも引き受けるから自分のもとに来い、と母を励ましていた。母からこの言葉を聞いた私はいかなる責任の取り方をするのか安易な安請け合いをするなと怒りを感じたし、彼の受け入れるという言葉も私にとっては理解不能であった。母の兄弟姉妹と父は不穏な関係にあり、この状況を単純に相談する人はいなかった。手の打ちようはなかった。私達家族は混乱の極みにあった。
父に母と大阪の人のことを告げ口することはさすがにしなかったが、私には大阪の人の扱いについての意見を求めてきた母に通り一遍の返事をするしかなかった。『彼が古い友人としてお母さんを見舞うことはできないの。特におかしいこととは思わないけれど。』母には家族以外の人間に対して友人としての明確な線を引いて欲しいと私は考えていた。『お父ちゃんがそれを受け入れると思わないわ。』と母は気弱く言い、私の考えを否定した。母の病気に対して母と父の対応の食い違い、そのいら立ちを間に立つ私にそのままにぶつけてくる両親。大人と思っていた二人が思いもかけないことに感情をあらわにし、その不満、愚痴をぶつけてくることに私はいら立っていた。私一人ではできることに限界があった。母の回復を期待して、私はほとんど母の病室に詰め、母のサポートに徹しようとした。父には家の維持、雑事に努力してもらいたいと考えていた。しかし父もまた私からの助けを求めようとした。そうした環境にいら立ちを感じていた時に父のこの交通事故であった。交通事故外傷のために父の入院という更なる状況の複雑化に私はいらだって両親二人の行っていることに対して自業自得の言葉となったのだが、確かに不適切な表現であった。当初の医師の説明とは異なり、父の骨はなかなかにつながらなかった。そのために父の入院期間は6か月の長期に上った。