イギリスには6年間滞在していたのですが、例外的な場合を除いてはほとんど日本人と接点を持たず

イギリス人に交じってイギリス人が暮らすように過ごしていました。

 そうすることで彼らの暮らしぶりも味わうことができ、彼らの考え方も学ぶことが出来ました。

イギリスで医療活動をするにはやはり彼らの生活、考え方を理解することが不可欠だと思ったからです。

 ラジオでBBCを常につけっぱなしにし、色々の番組から彼らの行動規範も学ぶことが出来ました。

でもそうした生活を過ごすことは自身日本人としての在り方を考え直す事にもつながり、自身のアイデンティティそのものを

問い直す事にもなってゆきました。

今更のことを申し上げるとアイデンティティと言う言葉自身が英語に起源をもつ言葉であるため、

そうしたことを考えることがイギリス人達の考え方なのかもしれません。

実際に何が起きたのかと言うと、

日本に帰ってきている時にも、一つ一つのことに『イギリス人であればこういう対応をするよね。そっちの方が合理的なのに。』

あるいは『これは日本人のこうしたやり方の方がいいのに。』と常に日本とイギリスを比べてしまう。

どちらの国に居ようとも常にその国のマイナス点のみに目を向けてしまうことにつながり、生活を楽しめなくなってしまうことが多くなってしまいました。

ただ、日本に生まれ、日本人として暮らし、一生日本を出なければ気が付かなかったであろうことに気が付くようになるのは良かったと思っています。

例えば、色々の論議、意見はあろうと思いますが日本の医療制度は素晴らしいと思います。

これについてはいつかまとめて書いてみたいとは思っていますが…。

そして素晴らしいがゆえにこの制度が将来にわたって長く続くことを希望しています。

でも今日は逆にイギリス人の在り方として深く感動した出来事を伝えたいと思います。

 

 

 これは私が馬鹿なことをしている最たるものの一つ…。

貴族の館の前で、日本の浴衣を着て(ピンヒールのハイヒールを履いて)写真を撮っているというもの。

   なぜにこのようなことが起きたかと言うと、貴族の館内のゴージャスな部屋を使ってパーティ兼レクチャーの催しに出かけた時のもの。

催しの趣旨は『地元のホスピスを支援しましょう!!』

で、主催者が参加者にお願いしているのは…。

   『地元のホスピスのためにあなたが亡くなる時にあなたの財産を私達に下さい!それで多くの人が助かります。

    どうかあなたの遺言書にあなたの財産を私達に寄贈する旨書いておいて下さい!!!』

  というもの。と言うことは招待者のほとんどはお金持ちの人だということ。

    そんな人の鑑賞に堪えられるような服もアクセサリーももっていない私で、彼らの評価の圏外に自分を持っていこうということで写真のスタイルとなった訳です♪

  このドアだけが写っている建物は先般ノーベル文学賞を受賞したカズヤ イシグロの受賞作品『日の名残り』英語タイトルthe remains of the day

の映画化に際し、ロケが行われた建物…。

内部にご興味のある方はどうかこの映画のDVDをご覧になって下さい。

  私の英語の個人指導をしてくれたメアリーはエキストラに公募して落選したそうです。

で、本題に戻すと…

   私がイギリスに初めて渡った時、(丁度40歳でしたが)オックスフォードの語学スクールで英語の個人指導をしてくれたのはテリーと言う中年の女性でした。

頭脳明晰でかつ優しい方でしたが、彼女はタイの道の傍らに捨てられていた私生児を養女としていたのです。

写真を見せられて、当時7,8歳と判断しましたが、生後の間もない時の劣悪な環境のためか痩せた健康状態に懸念を抱かせる子供達でした。勿論両親もわからず…。

その子供たちを自身の収入で養育しながら、休暇の時にはロンドンの病院に連れて行って何とか健康状態を改善させようと奮闘していました。

『私の美しい子供達、神様からの贈り物…』が彼女の口癖でした。

『いつか彼女たちが自身の国に帰りたいと言ったら返してあげるの。両親を探したいと言ったら。一緒に探してあげるつもりよ。』

と目をキラキラさせながら語る彼女に究極とも言える自己犠牲の一つの形を見た思いがしました。

『イギリス人ってなんと懐が深いのだろう…でもテリーが極端なのかな?』と感心していたらまたまた同じような経験をすることになります。

それは主人には血のつながらない妹がいるという事実でした。

主人の継母は昔ロンドンで路上生活をしていたアフリカからの不法滞在者の女児を法律の手から守るために養女としていたのです。

その女児にイギリスで高等教育を受けさせ、自立できるまでに援助したらしいのです。

ホスピス、緩和ケアについて学ぶために私がイギリスに渡った時、既に彼女は死の床にいました。

ですから私は彼女には会っていません。

でも珍しい世界にも数例しか記録されていない血液の癌と言うことで京大の助けが得られないかと主人から尋ねられ

京大の知り合いにコンタクトをとったことはあります。

しかしそれよりも彼女の病勢の進行はすさまじく、もはやそんなことを考えている余裕はありませんでした。

彼女が最後に希望したのは

  『自分の国に帰りたい…』

と言うことでした。そのために主人たちが動きました。

 彼女の故郷に一番近い場所に行くであろう飛行機を調べファーストクラスに席を確保し、同行する医師、看護師を手配しました。

 勿論費用は掛かりますが、私達日本人が想像するような途方もない費用ではなく、それをサポートするような制度なり保険があるとのことでした。

そして用意が整って…しばらく私は主人に会いませんでした。(当時はまだ主人ではないですが)

で、主人と再び会った時、首尾はどうなったのか、彼女は再びアフリカに帰れたのか、今どうなっているのか、と矢継ぎ早に尋ねました。

主人の返事は

『駄目だった…。』

容体の急変があり、入院していたブリストルの大学病院から出ることすらもかなわなかったそうです。

そのまま、イギリスで亡くなった、とのことでした。

『でも、不思議なことがあったんだよ…。』と主人は言葉をつなぎました。

『飛行機がイギリスを飛び立つその時間に彼女は息をひきとったんだよ。』と。

もはや肉体をもってアフリカに帰ることはできない、せめて魂になって帰りたい。と彼女は望んだのでしょうか。

古い言葉ですが、強い意思に

   この身は魂魄となりとも…

  の一節が心に浮かんで、彼女の人生を思い涙をこらえることが出来ませんでした。

   

    写真はブリストル駅です。