色々あったものの予定時刻の9時25分に予定通り観光バスにて京都八条口を出発。

    (私が空き腹を抱えている以外は…)

  ここで大人しく座っていれば良いものをまたまた不必要に私の頭が回転する。

  『ここからの出発だと多分少し北上して五条通に入り東に向かい、国道1号線を経由して山科に至り名神京都東口を入るのだろうな。

そして名神北上して滋賀県に至るのだろうな。』

などと考えている。(考えたところでどうなるわけでもないのに。自分でもこの性格何とかならないか、と思う。)

京大卒業後、まず医師としての最初の研修は山科にある大規模な個人病院で始まった。

 名神の京都東口にあるこの病院は時折、凄まじい交通事故のけが人が運ばれてきた。

卒業仕立ての研修医に大したことができるはずもなく、救急室の壁にただ張付いて他の先輩の医師の方々が働いている情景の中でけが人を呆然と見つめるのがやっとであった。

今も印象に残るのは20歳にも至らない若者、オートバイの事故で無残なほどに体が損傷していた。

その無残な御遺体の横で『その若さで父より先に逝くのか?』と泣きぬれるご尊父の姿が耐えられなかった。

そんなことを思い出していると、

短い時間、昨日の事の様にと思われていたものから知らない間に長い年月が経過してしまったことに気が付く。

山科の手前には御陵(みささぎ)という地名の場所があり、ここには天智天皇の御陵がある。

天智天皇が亡くなられたのは672年、近江大津宮であった。だからここに彼の御陵があるのだろうなと…。

 壬申の乱は同672年に起こり天智天皇の跡を継いだ息子弘文天皇(大友皇子)はその戦で亡くなり、政権は弟の天武天皇に移った。

そのあたりの詳しい事は昔、井上靖著『額田女王』で読んだことがある。

『一体額田女王は天武天皇と天智天皇のどちらを好きだったのだろう?

  そして大友皇子の妃十市皇女は父を天武天皇、母を額田女王としている…。ややこしいな???

   この状況を、自身の婿を殺す状況を天武天皇は何とも思わなかったのかな?

   それよりも日本を強国に編成していくことの方が大切だと思ったのかな??』

そんな昔に考えたことを思い出しながら、バスに乗っていた。

いつも通り山科への道は少し混んでいて、山科の街中も混んでいて、バスは名神へと進んでいった。

名神も瀬田西、東のあたりで少し混雑があってしばらくして、黒丸PAでトイレ休憩に入った。

この黒丸PAにてお腹が空いたので、近江牛コロッケなるものを購入した。(朝ご飯を食べていないので)

そこでやめておけばいいのに主人に

「この地域は牛肉がおいしいのよ。それでその肉を使ったコロッケを1個買ったのだけれど食べてみる。」

と尋ねてみると、喜んで二口で食べてしまった。当然、私の分は残っていない…。(またか…今日二回目…)

黒丸PAからすぐの八日市ICで降り、すぐについたのは永源寺であった。

 

 室町時代始め1361年、近江の領守佐々木氏頼により開山された臨済宗永源寺派大本山。

一時は隆昌を誇るも戦国時代度重なる兵火により寺院堂宇ことごとく灰燼に帰す。

江戸時代に入り御水尾天皇、彦根藩井伊家の帰依により伽藍が再興される。(永源寺のリーフレットより)

永源寺 点景

   水鉢、本堂裏に照り返すモミジの枝、茅葺の本堂…。

参道、やはり紅葉、少し時期が早かった…緑がまだ多かった。

  参道わきの露天の店に山で掘り起こしたこんにゃくを大きな鍋で炊いて、味噌を付けて食べるように

料理したものが販売されていた。

 とりあえず、空腹だった私はこんにゃくの味噌味付けを買い求めました。

主人は食べれないと思った私は主人の分を買い求めませんでした。

ところが親切な店の主人は主人の分として小さいものをおまけとして付けてくれました。

それがこの写真です。大きいのは私の分、小さいものは主人の分です。

せっかくのご主人の好意を無にするにも申し訳なく、

店の方が主人の分として、おまけを下さったことを伝えると主人がこんにゃくを食べました。

これには驚きました、今までこんにゃくなど絶対に食べませんでしたから。

挙句にプラスチックのお皿に付いたお味噌までなめている情景に

本当においしいものは不必要に手の込んだ料理ではなく、

自然のままの味を大事にした料理なのだと感じました。

   順番前後しましたが、永源寺総門…。

  

  そして、これが永源寺参道…。

この時はまだ気がついていませんでしたが、この日一日強烈な参道の登り下りを繰り返す日となってしまいました。

この参道、一見険しく見えますが

この後に比べるとまだ大したことでは…ありませんでした♪