残念ながらこの言葉が頻度は多くないものの一部の本から上がってきた。この言葉に対する不安を抑えて、主治医の面談に臨んだのは耳鼻科受診が調整された時であった。耳鼻科の受診を終えて、耳鼻科医からの外科への回答は異常なしとのことであった。外科医はその回答を受けて私達に微笑みながら『うるさいから眠り薬を出しておくから、眠らせておきなさい。』と説明することとなったのである。それらは眼科、耳鼻科からの『異常なし。』との回答を受けて、外科医が出した結論としては妥当なものだったであろう。しかし眼科からの回答は異常なしとのことではなかった。動眼神経麻痺の言葉があった。動眼神経麻痺、そして脳腫瘍の恐れ。このことを医学に素人たる私がどのように口を切ろうかと思い悩んだ。しかしその時あらぬ方より助けが私達の前に出てきた。それは外科医のために補助として配されていた外来の看護師からであった。彼女は『脳腫瘍で亡くなった自分の弟とお母さまが同じようなことを言っているのが気になる。』と語った。私達のために脳外科の受診をしてはどうかと提案し、自分が受診の手配をすると申し出てきた。『私が手配したとは誰にも言わないでね。あなた方が独断で受診を行ったということにしておいてね。』という言葉とともに。

外科の受診、耳鼻科の受診後、午前の診療受付が終了する直前に私達は脳外科にかろうじて受診することができた。比較的若手の医師にこれまでの経過を私は語った。私が眼科の紙に動眼神経と言う言葉が書かれていたと口にした時、面談していた医師は『君は看護婦か。』と私に尋ねた。質問の意図がつかめず、慌てて『いいえ、看護婦ではありません。』と答えながら、この時かすかにこの医師の人間性に不安を抱いた。私の言葉に対し、動眼神経麻痺は見られない、単なる私のいわれのない不安だろう、と彼は語った。これで終わらせてはいけない、現在の状況を打開したいと、同席している母親に病状のはっきりと知らしめるような言葉を避けて、私は『頭の中に何かややこしいものがある可能性はないですか。』と彼に尋ねた。『それほどに言うのであれば、頭のCTを撮りましょう。』と彼は答えた。約10日後、CTの予約は彼によりなされた。私はともかく一歩前進した、と安堵した。

しかし10日後、奇しくもCTが予約されていた日の朝母の状況は急変した。頭が痛いと狂ったように暴れる母親、受診の道すがら私の運転する車の中で意識状態は急変し、運よく叔母が車に同乗していたために様子を見ながら病院に運び、CTを含めて各種検査が行われた。恐れていた脳腫瘍、更に肺がんの発見であった。脳腫瘍が脳脊髄液の流路を閉塞しているために頭内に脊髄液が貯留し、脳圧が亢進しているための頭痛との説明であった。脳圧を下げるための緊急手術を行わなければ2,3日うちの死亡、との診断であった。その瞬間、終わった、と私は思った。崩れ落ちる気持ちであった。この時意識状態が混濁していながら、母は『大阪のあの人に連絡を取って私がこの様な状態であることを伝えてほしい。』と母の姉妹や私に何度も何度も懇願してきた。大阪のあの人に連絡を取るということは、私にとっては父を裏切ることを意味していた。私は看護婦だった叔母に『どうする。』と意見を求めた。『命がもう終わるかもしれないから、美愛ちゃんの希望を聞いてあげなさい。』と叔母は答えた。母の妹二人は『あんなに会いたがるなんて美愛ちゃんあの人にお金でも貸しているのかしら。』と全く予想外の疑問を投げかけていた。その言葉を聞いて、この状況に金銭のことをまず考える二人の人間としての浅ましさに私は深い失望を感じた。この二人にこれから先何も相談できないと私は感じた。悩んだ末に叔母の言葉の通り私は大阪の人に電話をかけることを決心した。納得したわけでもなく、簡単な結論ではなかった。

 大阪の人、その人は母親の過去の交際相手であった。そして母がずっと心に掛けていた人であった。母がその人のことを思い続けていたことを私は知っていた。その人と結婚しなかったいきさつも何度も母から聞かされていた。

父と母の結婚は両親により設定されたと母は口にしていた。そして両親のために人生を変えられてしまったと、少し恨みを込めて語っていた。当時母は1歳年下の男性と7年間わたり交際していたという。手をつなぐこともなく二人で色々の観光地を訪ねるだけの交際、時折のプレゼント。でも男性の側の親族は真剣に母と男性との結婚を望んでいたという。

「結構、男の人の親からも気に入られていたと思うのよ。妹さんもなついてくれてね。彼に色々の所に連れて行ってもらったわ。奈良公園、猿沢の池、それからきれいな百人一首ももらったわ。あれはいったいどうなったのかしらね。知らない間になくしちゃったわ。東京に行くときに捨てたのかしら。」

お客様の品物にアイロンがけをしながら母は話始める。

「あの人と結婚していたら、こんな仕事しなくても奥さんでいられたのに。あ~あ、重たいわ。アイロンを持ち上げる時に強いばねで持ち上げてくれればいいのに。あなたはこんな仕事をしちゃだめよ。人の汚れ物を洗うような仕事はね。しっかり勉強しなさい。」

重い業務用のアイロンを持ち上げながら、遙に遠くを振り返る目は懐かしさにうるんでいた。

「随分、色々な所に二人でデートに行ったのね。」

「そう、でもいつも勤め先から誰かひとりを連れて行くので当時働いていたお菓子屋さんの社長に『お前シャッターを押す係の人間をつれていくのか。それともお前たちの交際のアリバイ人間を連れていくのか。』って笑われたのよ。」

その顔は女性として輝き、思い出を懐かしむ顔は本当に楽しそうだった。

「どうしてその人と結婚しなかったの。」

「私もその人の家に出入りして歓迎されていたし、彼も御坊の家に出入りしていたし。結婚は全く問題ないはず、と私達は考えていたのよね。」

 『でもあなたはお父さんと結婚したのよね。そして私が生まれた。そこは一体どうなっているのよ。私の存在って何。』と私は心の中で叫ぶ。

「でも、彼の家に行っておかれているものを見ると、うちとは全然違うな、と思っていたの。御坊の私の家は全くの農家でしょう。でも彼の家は大阪の都会にあって家に行っても飾られているものも置いてあるものも何もかもが違っていたの。すごく彼の家族に対してひけめを感じていたの。」

身分の差、財力の差、家柄が違うと思っていたというのである。そして心の中で結婚はできないものとあきらめていたというのである。いつか別れなければならないものと覚悟していた、と。

「とてもハンサムで、紳士な人だったのよ。そして私には釣り合わないと思っていたの。」

でもそんなハンサムな人が私を大事にしてくれるのがとっても嬉しかったの。ある時御坊から到着する汽車がとても遅れたことが有ってね。彼は天王寺の駅で15時間も私を待っていてくれたの。トイレに行くことすら躊躇し、トイレから戻ってくると慌てて私の勤め先に電話をかけて『まだついていませんか。』って何度も尋ねていたんですって。」

で、結局会えたの、と尋ねる私にいたずらっぽく悪いながら母親は答えた。

「私は誰かから列車が遅れている、って教えられたので、その日に帰るのをやめたの。」

「そのことをその人に伝えなかったの。」

「だって電話なんて大変だもの。待っているなんて知らないし。」

「おかあちゃん、冷たい。そこまで真剣な人だったのになぜ結婚が駄目になったの。」

「いよいよ彼が私との結婚を許可してもらうために御坊の家に来た時に、おじいちゃんが『肺病病みだった人に娘は上げられませんな。』って言ったの。その頃は結核に対しての恐怖心は半端じゃないものがあったのよ。集落で結核の患者がいた家の前は私達も息を止めて走ったりしてね。確かに彼も結核の専門の病院に入院していたことは有ったの。刀〇〇病院って言ったかな。私もそこにはたびたび見舞いにも行っていたわ。でも一応治って退院できていたしね。だからそのことがそれほどに大事なことになってくるとは思っていなかったの。」

「で、おとうちゃんとはいつ知り合うのよ。」

「実はおとうちゃんは、もうそのころには御坊の家に出入りしてたのよ。私は出会ってないのだけれど。英子や敏子に馬鹿にされながらね。」