父は和歌山県の龍神村の出身であった。

 そして自分自身の家が建つ土地すら借地という貧農の出身であった。家は龍神温泉より少しばかり日高川下流にあった。最寄り駅となるJRの紀勢本線の南部駅、もしくは紀伊田辺駅からバスへ乗り換え、父の生家の集落に行くバスは1日に3便であった。バスが通う道は途中から日高川に沿って点在する集落縫って走っていたが、その道はとても厳しかった。道は車一台がかろうじて走れるほどに狭く、ほとんどが舗装されていず、対向車をやり過ごすための待避所が所々に設けられていた。舗装がされていないために、車のタイヤが通る部分だけが低くなり、道の中央部は不自然に高くなっていた。車高の低い車はその高くなっている部分をこすりながら走り、そのたびに不愉快な音を立てた。道を横切る蛇が車に引かれてせんべいの様に死骸をさらしているのを目にすることもあった。初めて伯母に連れられて幼い私がその道をバスで旅した時、ガタゴトと走るバスの揺れの激しさに父方の伯母が両手で私の体を押さえていなくてはならないほどであった。

 しかし私はその旅が好きであった。日高川はまだ護岸工事があまりされていず、ほとんど自然のままで、道にかぶさる様に生い茂る木々ですら葉の一枚一枚が日の光に照り映え美しく見えた、日高川の流れは日の光を受けてきらきらと輝いていた。ある時は静かに流れ、ある時は渦巻いて白く泡を立てて流れる。蒼い流れ、白く波立つ流れどちらも変わらず美しかった。小さな滝のように本流に流れ込む水も飛び散る水しぶきの水滴の一滴一滴が日の光をとらえて輝いていた。時折深くなる川の淵は深い青緑色に彩られ、その中には見知らぬ別世界があり私を誘い込むようにすら感じられた。崖となっている側は山より落ちてくる湧水が小さな水脈となってシダや名前も知らぬ花々を潤し、美しく飾っていた。

 そうした美しい外見とは裏腹にそこでの生活は決して楽なものではなかったことであろう。山は険しく両側から集落に迫り、平坦な土地はほんのわずかしかなかった。夏でも涼しく、過ごしやすい土地であったが、8月既にわずかに生育している稲穂は黄金に色を変え、頭をたれていた。その生育期間の短さを思えば収穫はそれほどに豊かなものではなかっただろう。ゆえに祖父の家に滞在しているときの食事は薄い粥であった。副菜は田の畔で育てられた大豆、野菜の煮ものなど。飼われている鶏が卵を産んだ時にはごちそうだった。夏休みに体を健康にするために両親のもとを離れての生活は目新しく楽しいものであったが、おそらくそこに居を定め生活を行う人々にとっては苦労の多い生活であったことであろう。田畑は多くの兄弟が生活を頼れるほどに多くはなかった。長男のみが村に残り、他の兄弟は他に生活のすべを求めて村を去る、そんな状況が想像できる。

 きっと父もあの生活から抜け出すことを図り、尼崎で生活をしていたのだろう。父親は8歳の時に実母を亡くし、祖父は旅館に働いていた女性を内縁の妻として家に迎え入れていた。そしてその女性が迎え入れて間もなく祖父は脳卒中に倒れ、畑仕事を行うことができなくなってしまった。家族が生きていくための農作業に従事したのはその迎え入れられたばかりの女性であった。その女性に連れられ、農作業に行く道にその女性はいつも飴を口に含んでいた、しかしその飴は父をはじめとする幼い兄弟姉妹たちに分け与えられることはなかった、と父は言う。終生父は飴が好物であった、と言うより屈折した感情を持っていた。私にとって龍神村は何を書いても何を思い出しても懐かしい、心楽しい思い出でばかりあるが、父にとっては別の感慨があったようである。村の小学校で稀に見る優秀な子供として名高かった父であったが、村の有力者から学資支弁したいという援助の申し出を断り、町に出ることを選んだ。そして尼崎で母の兄と友人となる。この叔父は私が10歳の時に亡くなったが非常に寡黙な人であった。優しい人であったが、控えめで、荒々しい言葉を口にすることもなく、穏やかな人であった。内気で人に話しかけることなどできそうにない長男がなぜかある時友人を伴って御坊の自宅に帰省した。その人が父であった、と母は語る。体に化膿した傷ができ、龍神に帰っても医者もいず、また帰ることが難しい状況から母の兄は自身の家、つまり御坊の自宅に父を連れてきたという。

 母の実家は農家で比較的裕福であった。龍神村とは異なり、温かい日の光が差し、気温は和歌山市と比べてもやや高いように思われた。農作物は収穫が豊冨であり、冬でもなにがしかの収穫があり、海からの恵みも豊かであった。私が幼い時、母はいつも満潮の時を狙って実家へと出かけた。温かい海で貝や海藻を収穫するのが目的であった。祖母は料理の上手な人であり、私達の来訪のために海の幸山の幸を豊富に使って、寿司や魚の煮つけを用意していた。戦時下でも終戦後でもその状況はあまり変わらず、母はサツマイモを風呂の焚口に放り込み、忘れるのが常であり、自身の父に食べ物を無駄にするなと叱られた、と口にしていた。食料品が潤沢であり比較的豊かな農家であったから、病気の父の面倒を見ることに祖父祖母に躊躇はなかった。当時母すでに実家を離れて大阪で暮らしていた。が母の妹たる英子、敏子の二人はまだ家に居て、『五味さんって雑草でも食べるのよ。びっくりした。』と、貧しい龍神村の暮らしから身についた父の生活習慣を驚きばかりとは言えない、馬鹿にするような口調で描写していた、という。

 しかし、8歳より実母無く育ち、継母からは目の前に見せられた飴玉ですら与えられない生活を耐え忍んだ父は苦労知らずの叔母たちよりもずっと芯に強いものを持っていた。そして村の有力者が支援したいと言った頭の明晰さも、弁が立つことも、すべてが長男に飽き足りないものを感じていた祖父にとっては魅力的であった。叔父も友人であった父の頭脳にほれ込み、母と結婚するように強く勧めた。こうしたことは母親不在の御坊でゆっくりと進行していった。ある日大阪で化粧品店に勤める母のもとに薄汚い男性が化粧品を買い求めに来た、と言う。母の薦める化粧品を見もせず母の顔ばかりを眺め、何も買わずに消えたという。それが父と母との出会いであった。父は母の両親が薦める母との結婚を受け入れる決心をし、母の顔を確認するために母の勤める化粧品店に現れたのであった。間もなく母のもとに長兄の友人たる人と結婚するようにとの両親からの連絡が届いた。公式な見合いの日程も設定されている手紙に母は交際相手に「今度の人は両親も兄もすごく気にいっているから私と結婚したいなら相当頑張らないとだめよ。」と叱咤したという。しかし、母が頼んだように母の交際相手は見合いの場に現れ、母との結婚を祖父母に願い出るという行動に出ることはなかった。そのまま自身の大阪の自宅からも失踪してしまった。