『また〇〇さんが来てね。すごく頭の良い子が生まれていてね。その子が今年ストレートで国立の薬学部に入ったのよ。』

と自慢したと祖母が言葉をつないだ。

『そしたら彼はなんと言ったの。』

『僕との結婚ではそんな子は生まれなかったですね。やはり美愛子さんの選択は正しかったのですね、と寂しそうに言っていたわ。』

このあたりが私についていけない彼らの会話だった。母と結婚できなかった彼の悲しさに同情が感じられなかったのがこの会話に感じた私の不快感であった。

 私が20歳の時に祖父が亡くなり、22歳の時に祖母が亡くなった。祖母が亡くなる前に,何度か祖母は彼が母の消息を聞くために御坊の家を訪れたと口にしていた。しかしそれは絶対に父親に聞かれてはならない会話であった。祖母の死を以て御坊の祖父母の家は空き家となった。彼が母の消息について情報をえるすべは失われた。そして私達の生活から彼の影さえも完全に消えた。

しかし祖母の死から数年後のある時、私が何気に自宅にかかってきた電話に出ると、聞いたことのない男性の声であった。

 その声は『五味美愛子さんのご自宅でしょうか。』と尋ね、母の同級生だと自分の身を明かした。そして、美愛子さんに電話を変わって欲しい、と私に伝えた。その言葉に不審なものを感じた私は彼の言葉にさらに疑問を投げかけ食い下がったが、彼も引き下がらなかった。私は母に「誰か名乗らないの。でもお母さんの同級生で電話を変わってほしいって。」と伝えた。戸惑いつつ電話に答えた母はその人が誰であるかに気が付き驚いたようであった。その時から母とその人との電話での会話の行き来が始まった。母はその電話での行き来に私の仕事場の電話を使った。そして私の電話代金を跳ね上げた。私は母に電話料金の対する苦情とともにあの人がどのようにして私達の自宅の電話番号を突き止めたのか尋ねた。母はあの人が私の結婚後の苗字を知っていたから、電話帳を頼りに和歌山市のその姓名の家に順番に電話をかけ、とうとうに母に行きあったらしいと私に語った。しかし母はなかなかに彼に会おうとはしなかった。

 でも彼の事を気にかけていたことは紛れもない事実であった。自身が肺がんかもしれないと彼から聞かされた時、母は彼の回復を祈って好きだったコーヒーをやめた。私は第三者の立場で母の行動を眺めながら首をひねって考えていた。彼を好きであるのなら会いに行けばいい、でもそれはしない。では好きではないのかと言うと電話で長話をすることをやめない、彼のカラオケのテープは毀れるほどに聞く。彼が病気だと聞けば自分の好きなコーヒーを断って回復を祈る。当時の私には母の行動がどうしても理解ができなかった。理解できないが、母が私達の築いた現在の生活を壊そうとしない限り、父の耳に入れるまでもないか、と私は静観していた。

 その年私は貯まった商品券を使用して近畿ツーリストから家族三人のツアー旅行を計画した。10月の末の東北の紅葉を鑑賞する旅行であった。1泊を十和田湖畔の宿で、後の1泊は岩手県の中尊寺近くに宿泊するものであった。母は彼と旅行のことを会話したようであった。彼は当時の私達の生活に若干の嫉妬を感じていたらしく、ある日母は私に『家族で東北に紅葉を見に行くことをとてもうらやましく、嫉妬を感じる、と彼が言っているのよ。』と伝えてきた。それを聞いて『知るか!彼に関係ないだろうと。』私は怒りを感じた。私にとって彼はあくまでも私達の生活に関係のない部外者であった。私達の旅行に対する彼の怒りも嫉妬も根拠のないばかばかしく聞く気にもならないことであった。しかし母は十和田湖畔の宿から彼に電話をしていた。その光景を私は目撃した。

 それまで私達家族はクラウンを使用してのドライブ旅行が常であった。ツアー旅行はこの時が初めてで、そして最後の旅行となった。奥入瀬渓流の紅葉は美しく、遊覧船から眺める十和田湖の景色も印象的であったが、十和田湖の乙女の像を見学に行く折に母はバス酔いしたらしく気分が悪いとバスを降りようとはしなかった。車に強い母には珍しいことであった。それとともに印象的に自身が映っていた鹿角のリンゴ園、松島で撮影した写真をさして、母は『もし、私の葬儀をすることがあればこの写真を使ってね。』と私に言ってきた。その時は『おかしなことを。』と私は考えていたが、今から思うと母は既に自身の体調に何かの変調を感じていたのだろうか。がんの発見まではまだ間があったけれど。

 旅行後いよいよ母は彼と会うことを計画した。そして私に同行するようにと命じてきた。再び、私の心の中は疑問でいっぱいになった。『どうして私が行かなければならないのか。』巻き込まれることは私にとって迷惑以外の何物でもなかった。そのような男女の交際を嫌悪すべきものとして私に教えてきたのは母自身でないか。年明けのある日、母は私のミンクのコートを着、私にはダックスのコートを着せて彼に会うために梅田の大丸に出かけた。私が彼を見た時の印象は母が何度も言っていたようにハンサムとも、紳士とも思えるものではなかった。私の抱いた印象は『やせた貧相な年寄り。』に尽きるものであった。母がみているのは現在の彼ではなく心の中の思い出の中の彼の姿なのだろうと結論した。この年寄りが私達の人生を脅かすほどのことはできない、今の生活を崩すほどに母も馬鹿ではないだろうと結論した。丁度訪れた梅田の百貨店では東北フェアをしていた。私は自身の下した結論に少し余裕をもって、上から目線で『先般の東北旅行でこの笹かまぼこが本当においしかったのですよ。お味はご存じですか。知らない。では私からお土産に差し上げますからお召し上がりになってみてくださいね。』と彼のために私達家族とは別に買い求めた。『いかなることが過去にあろうとも私達家族は盤石であり、あなたとは違う世界に棲んでいるのですよ。』と言うのが笹かまぼこに込めた私の意味であった。私が彼に会った時のいきさつであった。その後いつものように彼と電話で会話をした母は『自分たちの子供と全く違う。頭が良くて、人見知りもしない。毅然としている娘さんだね。』と彼が言っていたと私に嬉しそうに伝えてきた。彼が私にいかなる印象を抱こうとも私には関係のないことと、その言葉を受けて私は思った。それが彼と私が出会ったときのいきさつであった。

『最期の願いを聞いてあげたら。』と言う叔母のアドバイスに従い、私は父に内緒で大阪の人に連絡を取ることを決心した。

これが本当に正しいことなのか、ためらう気持ちは最後まで強かったけれど死に瀕している母を穏やかにあの世に旅立たせるために自分の個人的こだわりは捨てるべきだと自分を説き伏せた。母が私の仕事場たる学習塾に残したノートの中に彼の番号が記されていることを私は知っていた。彼と連絡が取ることができるその電話番号については母が私に経緯を説明していた。彼はほぼその喫茶店で日を過ごしていると言うことであった。母が言うように本当に連絡が円滑につくのか心配しつつ、私は番号をダイヤルした。すぐに愛想の良い女性の声が電話に応えた。私は安堵すると同時に軽い失望を感じた。こちらの名を名乗り、『彼からの電話がほしい。』と彼女に伝えた。すぐに折り返しの電話があった。大阪の大丸で一度母と共に出会った彼の姿が思い出しながら、私はかすかなプライドを振り絞りながら、母の病状を彼に説明し、『今現在は親族が詰めかけているので無理だけれども、少し状況が落ち着いたら連絡させて頂きたい。母が強く希望しているので可能であれば会いに来てほしい。』と頼み込んで、素早く電話を終わらせた。その後、母の個室に戻り、ベッドのそばの椅子に腰を掛けたが自分の行ったことが果たして正しいことだったのか、とそれからも悩み続けた。脳から腹腔へのドレイン挿入のための緊急手術が終わろうとしている頃であり、とりあえず危機は脱したと親族は一人去り、二人去り徐々に病室に詰めかけている人々は少なくなっていった。その中で突然個室に看護婦が訪ねてきた。

「美智子さんにお会いしたいとお客様がお越しですが。」

「私に会いたいという方ですか。本当に私に会いたいと言っているのですか。」