昨日昼過ぎから始まった雪で本日金剛山及びその周辺の山が冠雪していました。

この家を建てる時に建築を依頼していた某ハウスメーカーは和室に雪見障子を入れようとしました。
で、その考えに私は真っ向から反対しました。
『雪見障子は地面に降り積もった雪を眺めるためのもの。
でもここでは地面に降った雪を眺めると言うよりは冠雪した金剛山の雪を見ることの方が趣深い。
山に降り積もった雪を見ると言えば、枕草子に有名な段があるでしょう。雪見障子は適切でない。』と。
というわけで枕草子第299段より
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、
物語などして集りさぶらふに、
「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」と仰せらるれば、
御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらわせ給ふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思いこそよらざりつれ。
なほ、此の宮の人には、さべきなめり。」といふ。
この段を踏まえて
『山に積もった雪を見ると言えば御簾でしょう。御簾をつるす様に計画して欲しい。』と言ったのです。
(しかし、実の所御簾と言うものを彼らに理解させるのですら至難の業で…。)
この定子中宮と清少納言のやり取りは、唐代に活躍した白居易のさる漢詩の第四句にある
香炉峰雪撥簾看
(香炉峰の雪は御簾をかかげてみる)
を踏まえてのものと言われています。
お二方ともこの白居易の漢詩を御存じであったということです。
定子中宮はこの問いを清少納言に投げかければ、
自分の欲しい反応をするであろうと踏まえて、『少納言よ』と指名して
『香炉峰の雪いかならん』と尋ねたわけですよね。
この時代、漢詩及び漢字が書けるということは非常に素養が高い女性ということになっていたらしいですね。
この枕草子の一節を読むと、どれほどに清少納言が定子中宮を尊敬しその人から信頼を得、
周りからもさすがとほめそやされてどれほどにうれしかったか、
この一場面に得意だったの彼女の気持ちが伝わってきます。
今なら心の中で『よし、やったぞ!』と叫ぶ様な状況でしょう。
定子中宮にお仕えするものに選ばれると言うことは、
おつきのものとして十分は素養をもっていると認められたということで
当時一流の文化人とみなされていた
清原深養父を祖父または曾祖父に、清原元輔を父に持つ清少納言としては自身の誇りのみならず
実家の名誉も守ったということでホッと一息というところでしょうか。
しかしこれが紫式部の評価になるとまあと呆然とするほどの事になってしまいます。
紫式部日記第48段から
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、
まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、
艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。
そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。
こちらは少し長いので現在語訳をつけると
清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほどに利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどくたりない点がたくさんあります。
このように人より特別に優れようと思い、またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものですから、いつも風流
ぶっていてそれが身についてしまった人は、全く寂しくつまらない時でも、しみじみと感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしている
うちに、しぜんとよくない浮薄な態度にもなるのでしょう。そういう浮薄な達になってしまった人のはてが、どうしてよいでありましょう。
(参考:小学館 日本古典文学全集 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記)
片や、定子皇后 もう一方彰子中宮なので仕方のないところですが…。
そうしたことも今や1000年の昔の事。
この後に起きたすべての恩讐も歴史のかなたに埋もれています。
御簾ごときことでいつまでも怒っている私はやはり人間として浅いか………。
話を当方の自宅に戻して、残念ながら和室に御簾をつるすことは結局できませんでした。
主人の身長に合わせて、天井の高い設計にしたがために巻き上げた御簾が想定外に径が大きくなってしまい、
ひっかける金具が不格好なものになってしまうということになったのです。
御簾のある家にあこがれていた私にとっては少し残念な結果になってしまいました。