何度も看護婦に聞き返した。

 私を訪ねてきた人がいるということが理解できなかった。今私がこの病院にいることを知っている人は親族を除いて誰もいないはずであった。そして状況を知っている親族は病院に詰め掛けていた。誰が私の名前を口にし、面会を求めているというのか、不審に思いながら私は病院玄関に急いだ。談笑している人、不安そうに座っている人、本を読んでいる人、多くの人がいるその空間にその人は一人居た。私を待って待合室に座っていたのは大阪の人、母の昔の恋人であった。彼の姿を見た瞬間私には強い怒りが込み上げてきた。『あれほどに落ち着いたら連絡しますと伝えたのに、この人は何を聞いていたんだ。今の時間に到着するということはあの電話の後そのまま大阪から走ってきたのか。よほどの暇人か。働いていないのか、この人は。どこが紳士や。勝手に私の名前を使うな。』と非難したい気持ちはそのまま私の態度に現れていたと思う。あの頃私はあまりにも若かった。私からの電話連絡後そのままに大阪から駆けつけて来た彼に対しての感謝の気持ちを感じることはできなかった。それよりも自分自身が一生懸命に考えた手筈をいとも簡単に破った彼に対してのいら立ちの気持ちだけがあった。私の彼に対する態度はお世辞にも礼儀正しいとは言えないものであった。このような複雑な状況に私を追い込んだ母と彼に腹立たしい気持ちもあった。しかし私の怒りを当人達にぶつけられる母の病状ではなかった。そのことだけは分かっていた。自身の怒りを彼にぶつけて追い払うことはできなかった。それが私を余計に苛立たせた。『母のために、母のために。』何度も心の中で呟いて、『私に彼を怒らせる権利はない。』と自身に言い聞かせて彼に対峙した。彼の来訪に私がお礼を述べたのかどうか、ですら私の記憶に残っていない。それほどに私は怒っていたのだ。

「病院の門を出て、病院に向かい左側の二軒目にジュリアンと言う喫茶店があります。そこで待っていてください。親類をすべて母の部屋から帰ってもらうことが出来たら私もすぐに行きますから。」

言葉の後、私は母の部屋に戻った。幸いに親族はほぼ帰り、父ともう一人の親族二名だけであった。親族には来訪のお礼を言い、今日はもう母も落ち着いているからと帰って下さるようにお願いした。父には医師と少し病状のことを話してから、自分で帰るからと先に自宅に帰るように促し、私はジュリアンに向かった。私の依頼通り彼はそこに居た。やや薄暗い喫茶店の中で、さらに彼の空間だけが薄暗く沈んで感じられた。私は彼の前に座り、自分用にコーヒーを注文した。いずれにしてもそこに長くいるつもりは全くなかった。しかし私には言わなければならないことがある、そのことだけは言うつもりだと心に決めていた。

「母の強い希望があったので、今日はお会い頂きます。でもこれが最後だと思ってください。私は母の名誉を守るためにあなたとコンタクトを二度と取る気はありません。ここから先は家族の領域だと思ってください。家族でもないあなたを今以上に深い状況に立ち入らせる気はありません。」

私は言いたかったことを一気に述べた。彼は

「でも、美愛子さんと僕は何もなかった。手をつないだことすらなかった。そして連絡を取ることも最近始まっただけです。」

「それは母からの言葉とあなたからの電話に最初に応えたというのが私だったという偶然から私は存じております。でも、あなたがうろうろして誰かがそのことに気が付いたとしてどう言い訳できるでしょう。母を守る証拠は何もありません。父とのこともあります。あの両親の間の子供として私は父の気持ちを傷つけることにこれ以上手を貸すことはできません。その事をお判りいただきたいと思います。」彼の言葉を待たずに言葉を続けた。

「では参りましょう。」

私は母の病室への道を敢えて複雑にして彼を導いた。自分自身その行為は姑息であり、何も意味をなさないことは理解していた。母の病室に彼を招き入れ、

「お母さん、〇〇さんがわざわざ心配して大阪からお見舞いに来て下さったよ。」

その言葉に母は目を開けた。大阪の人はベッドの脇に置かれた粗末な折り畳み椅子に腰を下ろした。母は手術のために綺麗に髪を剃られてしまった頭を指さし、

「こんなになっちゃった。」

と笑った。その言葉のトーンの親しみ深さ、近しさは普段の母と父の会話にはないものであった。家族と言いながら、私たち家族とは異なる次元の親しさを二人が育んでいた事、そして今も持ち続けている事に私は強いショックを受けた。嫉妬と怒りで身が震える思いであった。醜く姿を変えてもそのことをそのままに伝えられることに彼らのつながりの強さを見せられている思いだった。彼らのつながりの中に父と私はいない。私は二人を残し、部屋を出た。今の母には動く力も身を起こす力もない。おそらくこれが二人にとって最後の別れとなるであろう。母親の病状から考えて、再起は望めそうになかった。余命としてどれだけ残されているか。この時点で私はまだ母の余命のことは知らなかった。

 22歳で親の言いつけで父と結婚して結果別れざるを得なかった二人。その前の7年間の交際期間。彼が母の所在を探し見つけてからの約5年の月日、電話での会話、5年間にただ一度の再会。そして母親は現在56歳。今母の人生は終わろうとしている。40年近い年月が無機質な白い病室の中の二人に優しく降り積もって行く。猿沢の池でのデート、天王寺の駅での待ちぼうけ、母親の親族との結婚のために彼を引き合わせたこと、私に語られた以外の思い出も数多く二人の間にはあったであろう。それは二人が紡いだ人生であり、そうした思い出が静かに二人を包んでいく。やはりこの二人には縁はなかったというべきか。それとも母の人生のこの瞬間に再び巡り合った二人、やはり母の人生の集大成の時が訪れているのか、そんなことを廊下で一人考えていた。しばらく後、私は母の部屋のドアをノックした。

「もう。そろそろお帰り頂きましょう。」

私は母を促した。彼と病院の廊下を歩きながら私は言葉を発しなかった。再び私は曲がりくねった道筋をとった。彼を駐車場に案内し、私は病院の門に向かった。彼の車はすぐに駐車場より現れ、病院の門で彼の車が消えるまで私は見送った。

 病室に母を短時間見舞い、私は家に帰った。その前に病院の受付で今後母親に関する見舞い客が来てもそのような人はいない、私について接触を試みてもそのような人は院内にいないと、応えるようにと依頼した。家に帰りつくと母が言い残していた隠し場所より彼に関するものを取り出した。彼がカラオケで歌っているカセットテープ、母がテープの切れるまで聞き、私に修理を頼んできたものであった。そして彼が母に送った金のネックチェイン、そして今回私が彼との接触のために使用した住所録であった。私自身の衣装ダンスの奥深くにそれらの収納場所を変えた。何よりも彼の来訪を父が知ることのないように、万が一に彼の来訪を知っても私が関与していないと知らぬ存ぜぬを私が通すために。絶対に父が触らない場所へと移したつもりであった。そして母にもそれらの品を残る人生に二度と触れて欲しくなかった。母にも隠し場所を教える気はなかった。彼の存在をなかったものとして私達家族の人生から消したかった。

 この時から7か月後母はこの世を去った。母が死して初めて隠し場所より3点の品物を私は取り出した。棺の中の母の遺体の傍らにカセットテープと住所録を置いた。カセットテープはあれほど聞いていたものだった。そしてテープが切れた時、母は私に修理を依頼してきた。その中身を私は聞いたことがなかったし、あえて聞こうという気持ちは最後になっても起こらなかった。しかしそのテープを母の遺体の傍らに置いた瞬間に私の心の中にあるメロディーが響いた。母が一番好きだと繰り返し、歌っていたメロディーだった。その歌の始まりの一節だけを繰り返し歌っていた。『会いたい気持ちがままならぬ…。』と歌い始めるその歌に母は30数年余り彼への自分の思いを重ねて生き抜いたのだろうか。チェインは母の手に巻き付けた。その見事さに目を止めて親族は私に自身のために形見として取り置くように私に勧めてきたが、とんでもないことであった。このチェインにこれからの私の人生を重ねていくことなど絶対にできはしない。何も言葉を返さず、そのままに母の手に残した。遺体の火葬を以て二人のつながりを示す品は母と共にこの世から消えた。

 しかし不思議なことが起きた。ちょうど母の1年後の命日の日、早朝の事であった。私は母の姿を見た。当時父との仲が決定的に壊れていた私は生活の場を自分の仕事場たる学習塾の二階へと移していた。二階には6畳の和室が二つあり、うちの一つを事務仕事のための部屋として机、本棚等を置き、今一つの部屋にはベッドを置いていた。突然目が覚めた私は母が私の机に座って電話で楽しげに話している様子を目撃した。本当に楽しそうに話す様子は『お母さん今は幸せなんだ。』と私に感じさせるものであった。その姿があまりにも鮮烈であったためにとても夢とは思えなかった。そして私は瞬時に電話の相手は大阪のあの人だと悟った。長い時間を電話に費やすと、母は電話を切り、すっと消えた。私はその光景を泣きながら見つめていた。