昨年9月の事、丹生川上神社に行った時、行く道すがらに天誅組の歴史的な遺構が散在していることに気が付きました。

そして天誅組と言うと、幼い時から龍神の奥の小又川村に天誅組と言う尊皇派の志士たちが幽閉された倉があることを知っていました。

で、一度龍神村に帰ってその二か所のつながり、ひいては天誅組の蜂起について一度自分の目で資料を読んでみたいと思っていました。

今日水曜日はクリニックの休診日ですが、和歌山でちょっとした用がありました。

その用が終わった後、龍神村に入ろうと決めました。

和歌山市で用が終わったのは11時少し前。和歌山南インターから高速に入り、有田で高速を降りてそちらから有田川町、日高川町を経て龍神村に至りました。

龍神温泉で体の傷を癒した後、小又川村に至りました。

これが天誅組の志士が幽閉された倉です。

   

  

1863年、尊王攘夷派の天誅組は明治天皇の叔父にあたる公卿の中山忠光を中心として挙兵し、

孝明天皇の大和行幸の先駆けとなることを計画しました。

まず五条の代官所を襲撃し、代官を殺害、放火を行います。

しかしながらまだ混沌としていた時代、京都で政変が起こり尊皇派が朝廷から一掃され、彼らは一挙に逆賊として追討されることとなります。

もともとに装備の点では幕府軍にはるかに劣るものであり、中心たる人物を除けば寄せ集めの烏合の衆に近い状態。

江戸幕府の討伐令に従い、諸藩から兵が出されるようになると、逃亡するもの、軍勢自体は壊滅的な状況となってゆきます。

五条で劣勢挽回を企画するも、時に運なく失敗。

それぞれに日本国内に隠れ住んで尊王攘夷を行っていこうと逃亡を図るも幕府の追撃厳しく大多数は自刃或いは処刑されることとなります。

五条から十津川村を経て、小又川に至った八名の者、

結局紀州藩に自首し、2日間に至り上記写真の倉に幽閉されることなりました。

 

彼らの生活の様子が小型の人形で示されています。

壁には幽閉されていたものの氏名が示されています。

   その年齢を見るとみんなすごく若いのです、悲しいほどに…。

水郡 長雄 39歳、吉田 重藏 34歳、保母 健 23歳、辻 幾之助 26歳、原田一作 年齢不詳、田中 楠之助 21歳、

この時15歳未満であった 水郡 長義以外はすべて京都で斬首されています。

あと、5年或いは6年後には大政奉還が行われていたのに…。

 倉内には水郡 長雄が時世の句を血文字で刻み付けたという柱のレプリカが展示されています。

 

 

しかし、例え若くして世を去ることになっても自身の信じたものに命を懸けて

  彼らは誇りを持ってこの世を去っていったのかもしれません。

            哀れという気持ちは強いですが…。