魔女狩りとか補陀落渡海とかこのところ少し重い話が続いたので
少し気分を変えてみようかな、と思います。
京都大学の医学部に入ったのは36歳の時ですが、その前に18歳の時に金沢大学の薬学部に入学しております。
18年間浪人生活をしていたわけではないのです。私が金沢大学は行ったのは1975年の事でしたから、ちょうど大阪万博から5年後…。
今となってはその時代を知る人も少なくなってしまいました。
大学入試の合否の結果は学生クラブの資金稼ぎの電報を申し込むのが当時通常の手順でした。
不合格であれば『冬の能登の波高し、再起希す』、もし合格していれば『兼六園桜咲く、おめでとう。』と来るという事でした。
運良くも『兼六園…』の電報を頂くことができました。
金沢大学は当時金沢城の中にありました。
ドイツのハイデルベルク大学とともに世界に二つだけ昔の城郭の中に存在する大学でした。

石川門は金沢城の搦手門で、その瓦は弾丸の供給源とするために鉛でできています。
この門の内側に関係者以外入らないでください、の掲示があり
それをくぐって歩を進めることが当時どれほどに誇らしかったことか…。
門の右側の地面に微かに先端滑らかな三角形の石が写っています。(わかりにくいかな…)



左側の写真はその石です。
金沢大学の文字は石に彫刻されただけで、そのままでは写真に撮っても判読し難いので雪の日積もった雪をその彫刻部に詰め込んで写真を撮ったものです。
しかし金沢大学が城内から郊外に移転をしてしまい、この石も失くなってしまいました。
中央は金沢大学の前身であった第四高等学校の建物です。
そして右は雪の日の兼六園の写真です。
和歌山と言う一応南国の生まれですので、最初の年は雪の降るのがとても珍しかったので雪景色の写真が今もたくさん残っています。
特にこの頃は積雪が多く、1m60cmぐらいの豪雪が学生生活の一年目、二年目に起こりました。
金沢では雪が降る前に雪起こしの雷がなります。
冬に雷が鳴ると、部屋の中に居ても外が見えるように床から椅子によじ登り、今か今かと雪が降るのを待っていました。
しかし徐々に恐ろしいことに気が付いてきました。金沢大学はお城の中にあったと書きました。
1m60cmも雪が積もると坂道も階段も橋も何もかもがただ単につるつるの氷の坂道に変わってしまうのです。
一年目どれだけ滑って転んだことか。いつも臀部が痛い、痛いとぼやいていました。
それでも重大なことにならなかったのは若さゆえでしょうか。
今なら、即圧迫骨折ですが…。
私が入学した頃、まだ古い伝統が残っていました。
今となっては理解し難い古い言葉、でも文語の美しい言葉がちりばめられた四高寮歌、南下軍の歌などがまだ受け継がれていました。
偶然にもyou tubeから四高寮歌、南下軍の歌を発見することができたので、URLを貼ります。
特に私は南下軍の歌が好きでした。これは四高の学生達(特に運動部)が三高(京大)と対戦するために金沢を出発する時の壮行歌です。
金沢から京都に行くので南下と言うことになったわけです。
金沢時代、勿論両親は健在で、かつ大学の寮生活で思い出は両親とだぶっていないのです。
大学で学んでいた頃、母親の兵糧攻めで一か月の生活費の仕送り2万円、アルバイト駄目という恐ろしい設定に
全く何もできませんでした。
母親の主張は『勉強するために行っているのだから、アルバイトなどせず勉学に集中しなさい。』と言うことなのだろうと思うのですが、
それならば『十分なお金をくれよ。』と言いたいですよね。
ただ国立大学の入学金5万円、授業料月3000円と言う時代でしたので、今とは貨幣価値が異なります。
とは言ってもさすがに2万円の仕送りはきつかったです。
二食付きの寮費が月に7000円から8000円、残りのお金で一か月の生活をすることになると…
一週間を2000円で過ごさなければなりませんでした。
2000円を7で割ると一日300円弱、いつも大学の生協で安いうどんをすすっていました。
たまにお金に余分が出ると、少し豪華な定食を食べることができました。
でもそれでも読書は好きなので、食べなくても、安いうどんをすすっていても本はせっせと買って読んでいました。
勿論大学の図書館でも借りていましたが。
寮から大学へは毎日30分、徒歩で通っていました。バス代を出せる余裕はなかったです。
これだけ書けば母親がいかにも毒親のように思われるかもですが、母親も努力していたのです。
そしてそのことは私自身分かっていたので、かなり素直に両親の言いつけに従っていました。
生活の足しにと言うことで頻繁に缶詰や果物などを送ってきてくれましたし、
母親自身で車を運転して金沢まで様子を見に来てくれました。
運転できない父親を後部座席に乗せて…。
まだ北陸自動車も阪和自動車道もない時代でした。
国道をポンコツに近い状態の勿論マニュアルの日産のブルーバードを一人で運転して、
朝の8時ごろに突然やってくるのです。
『みっちゃん、来たよ!』
と背後から声を掛けられてどれほどにびっくりしたことか…。
そして色々の物を購入してくれて、修理しないといけない洋服などを見つけて
宿泊代がもったいないと夕方和歌山に帰っていくのです。
パン屋さんのガラスの中にある美味しそうなケーキ、パンなどいつもあこがれてみていたものを
母親が来ると買ってもらえてうれしかったことを思い出します。
あの時のケーキは本当においしかった!!
母の努力に思いを馳せる時、いかほどに頑張ってくれたかと思うと本当に頭が下がります。
大学入学の頃、卒業が近づいた頃、付き合いの会が増えてお金が立ち行かなくなり、
母親に臨時でお金を送ってほしいと頼むと
『何にどれほど使ったのか、ちゃんとわかるように書いてきなさい。
大学で学べることに甘えずしっかり勉強しなければならないことを忘れないように。』
という趣旨の返事が来ました。この時の手紙を残しておけばよかったと今は思いますが
残念ながらこの時はちょっと手紙がショックで、捨ててしまいました。
同級生などは卒業旅行、或いはアパートで快適に暮らしているのに私は寮の二人部屋で頑張って
質素に暮らしているのに、というのがこの時の私の思いでした…。
大学の4回生の時には教授それぞれの研究室に所属し、大学院生の指導の下に研究もどきを行うということなので
結構楽しかったです。
