先日那智の補陀落山寺を訪問した時に境内に興味深い遺跡があったのです。

でも補陀落渡海とは趣旨を異にするものなのであの時はあえてこれから認める遺跡については触れませんでした。

  

頓宮の意味は 漢和辞典によるとかりみや、行宮、行在所。

って言ったって、かりみやはわかるけれど、行宮、行在所は更に辞典を引かなければならないじゃない?

行宮(あんぐう)の意味は政変などのために御所に居れないときに一時的に宮殿として建設または使用された施設

行在所(あんざいしょ)天皇が行幸時に一時的に滞在する場所

 って行在所も読めないじゃない!!

と言うか、これに触れるとしたら神武天皇東征について触れざるを得ない、と言うわけで考えていたのですが…。

私は単純に現在に残る過去の遺構を背景の歴史とともに楽しんで過去の人々の息吹きを楽しんでいるだけなので…。

そのことからすると神武天皇あまりにも古すぎて…。

一応、書物などで読んだ神武天皇東征についてあらましを書くと

神武天皇(名前はこの時違うのだけれど、ややこしいから敢えて神武天皇とします)と兄の五瀬命は九州の宮崎で日本を治めるために東に行こうと決心します。

筑紫国岡田宮(今の北九州市)、安芸国多祁理宮(今の広島県安芸郡府中町)などを経由し、

浪速国に至り、そこで地元の豪族長髄彦と戦い、(これも戦った場所が東大阪付近と言われていますがはっきりとしません)

五瀬命が矢を受け、傷を受けます。

そして海路にて紀伊半島沿岸から熊野の方に至り、そこから陸路を北上するように計画を変更します。

この旅の途上、紀国に至った時に五瀬命がなくなります。

と古事記、日本書紀等で言われているので、この地に神武天皇頓宮跡があるであろうと推測は着くのですが…。

歴史もここまで古くなると、しっとりと心の中に落ち着くという境地には遠いものがあります。

昔、手塚治虫の火の鳥を読んだことがあるのですが、

書中で卑弥呼の邪馬台国について九州説を採択し、卑弥呼が騎馬民族により征服されるという描写をしていたように思うのですが…。

文章に締まりが付かないままに放置!!!このトピックは私の力を越えている…。

で、そのついでにもう一か所訪問することとしました。

と言うか、本当はそちらの方が先に訪問したのですが…。

 訪問したのは…

  

この写真、一体何と思われるかもしれませんが…

  山の写真、低い方の峰のすぐ下にかすかに赤いものが見えているのをご理解できるでしょうか…。

 これは和歌山県新宮市にある神倉神社です。

 カメラの望遠をマックスに使ってなんとか理解できるように…

これが神倉神社社殿です。

 ここに至るためには

源頼朝が勧進したと伝えられる538段の石段を登らなければなりません。

もともと不良品の心臓を抱え、乳癌の化学療法、放射線療法

を受けている身に主人からは

『登るな!!』

登れば豪快な岩が傍に見ることができ、

ここからの熊野灘の眺めは素晴らしいらしい…。

インターネットで素晴らしい写真が一杯上がっているので神倉神社で検索して

写真を楽しんでみて下さい。

で、主人の許可は出ないけれど、せめて石段の入り口まででも、と思い神社を訪問…。

現地での説明板の写真です。

  すいません、手抜きで…。

これが神社の入り口です…。大きい場所ではありませんが、しっとりと落ち着いた感じが気持ちよかったです。

猿田彦って、天孫降臨の際に天照大神に命じられて道案内した人でなかったっけ…

もう頭がついて行かない…

文章は中途半端で放置…。

で、後の写真はひたすらこれのみ…。他の写真は登れていないので撮れていない…。

 

階段の写真を撮るために途中まで歩を進めただけで、主人は『行くな!行くな!』と叫んでいる。

「I know!(分かっているわい!)」と叫びつつ、

『でも行きたいな…。』と心でつぶやく…。

しかし先日の竹生島訪問で100段あまり上るのも至難の業だったのだから、

538段を無理なのはわかっている、しかしやりたい…。でも無理…。

単に段数だけでなく、階段自身が源頼朝時代の物なので上りにくそう…。

心を一杯残しながら後にしました…。