母の入院のゆえに空いた時間には行うべきことがたくさんあった。
まず私が行ったことは市役所で母の国民年金の支払いを休止することであった。
次に私は母が大事にしていた車を売り払った。
私が母に贈り物として買ったクラウンであった。母は車の運転が非常に好きな人であった。『車を運転すれば、頭痛が消える。』というほどであった。女性としては大胆な運転をした。クラウンの前に所有していたのは日産のブルーバード。私が中学生の頃に購入したものであった。このブルーバードで何回となく日帰りで和歌山と金沢を往復してくれた。当時北陸自動車はまだなく、国道8号線を使って北上してくるのが常であった。このブルーバードは当時の車の常としてクラッチの切り換えが必要なタイプでありなかなかにクラッチが入りにくく、母は運転に難渋していたが、8時間以上を一人で運転して突然予告もなしに早朝学生寮に現れた。『みっちゃん、来たわよ。』と事もなしに朝洗濯している私の後ろに立った。そしてその日夕刻まで、衣服の入れ替え、部屋の掃除、不用品の自宅への持ち帰りのための整理などを行い、夕刻ラッシュが過ぎたころを見計らい和歌山に帰っていくのが常であった。往復の途、父は常に後部座席であったという。私が金沢大学を卒業した時、母はそのブルーバードを買い替えるつもりであった。しかし希望する就職先が和歌山で得られなかった私は両親が所有する土地に学習塾を開こうと考え、そのための建物の建築を両親に頼んだ。建築のために車の購入費用は消えてしまった。そのいきさつがあり、学習塾が軌道に乗った時母のためにクラウンの購入を計画した。
母に内緒にと、一人で自動車ディーラーと交渉を行った。『いつかはクラウンに』のキャッチコピーが健在であったころで、営業の方が『功成り、人生に成功を収めた方がこの車を買うのですよ。』とおっしゃられたので、『じゃ、20代半ばの私が買うのはまだ早いですね。』と切り返した。営業の方は冷や汗をかいて、必死に自身の言葉を打ち消しておられたが、それも今となっては遠い思い出話であった。
自宅の門がそのままでは車が入らないので、門を大きくするための工事をし、門被りの槇の木を移し、その車は納車された。母にとって初めてのオートマチックの車であった。トンネルに入れば自動でライトが付き、トンネルを出れば自動でライトが消える。現在となってはなんということのない装備だが、当時は私達にとっては驚きであった。後部座席の後ろには冷蔵庫様の装備があり、ジュースなどを冷やして置ける、等々。ブルーバードからの時の流れ、車の性能の向上、ひいては私達の生活の上昇を強く印象付ける車であった。
その車を利用して1年に1度長距離の旅行をするのが私たち家族の楽しみとなった。母の希望で白ではなく、珍しい重厚な色合いであったこの車はどこでも人目を惹き通常のクラウン以上の存在感を植え付け多くの称賛を浴びた。私達家族にとってはそれがまた喜びであった。まず最初に私の大学の同窓会の出席を兼ねて能登半島と富山のアルペンルート、次の年には上高地、その次には美ヶ原高原、木曾の妻籠馬籠宿。今も残る写真の数々には私達家族三人の笑顔が光る。家族力を合わせて、貧より努力し、身を起こし、家族の幸せ、成功の象徴の一つがその車であった。
しかし軽自動車しか運転したことのない私にその車を運転することは荷が重かった。門から出す事すらできなかった。また軽では体が弱っていく母親を運ぶこともできなかった。苦渋を以て早急に、母の死の前に車を手放すことを私は決断した。ディーラーと交渉の過程で知人が全く無傷で新車同様であったクラウンを譲ってほしいと申し出た。私の運転していた軽自動車はディーラーに託し、二台の車を以て4ドアのカローラに買い替えた。クラウンを引き渡す前に外泊で病院から母が帰ってきたことがあった。和室で横になりながらカバーを外したクラウンを見つめ、『この車で色々な所に行ったことが夢みたい。今となっては人生のすべてが夢を見ていたようだわ。』とつぶやいた。その言葉を聞いてなぜか私の中にたとえようもなく嫌な予感がして、その思いを必死になって打ち消した。『早く元気になってまたもっといい車を買いましょうね。』とは答えたものの、人生夢の様だった、と語る母はもはや自分の再起が来ないことを悟っていたのかもしれない。私はそのつぶやきと向き合うことなく、背を向けた。この時私は母に病気の真実を伝え、手を握りともに人生を振り返るべきなのだったのか。でも私にはそれはできなかった。やはり母に生きていて欲しかった。どれほどに事態が厳しかろうと。
私の願いにも関わらず、ゆっくりと私達の廻りから幸福の象徴は一つ、また一つと毀れていった。