白河天皇は即位直後は伝えられるような専制君主ではなかったのではないか、とされています。
後三条天皇の第一皇子として誕生され、17歳の時に皇太子となります。
その際に藤原能長の養女道子を妃として迎えられるも当時彼女は28歳、無理のある結婚生活であったと伝えられています。
道子の入内より約二年半後、今度は摂関家の嫡流である左大臣藤原師実(藤原頼通の第六男)の養女賢子が入内してきます。
賢子は当時東宮の白河天皇の寵愛を一身に集め、仲も非常に良かった、とされています。
彼女は二男三女、うち一人は後の堀川天皇、を出産するも28歳崩御します。
ですのでこの時点で白河天皇は藤原氏をあえて排斥する意図は持ち合わせていなかっただろうというのが歴史家の観点です。
しかし、賢子を亡くされて、白河天皇は一時的に一人の女性を定められることなく周りの女性と気ままな関係を楽しんでいたとされています。
そして、その天皇の寵愛を一身に集める女性が出現してきます。
それが祇園女御と呼ばれる女性です。

祇園女御の素性については明らかではなく、身分卑しい女性だったのではないか、とされています。
天皇の妃の高位の女性に与えられる女御と言う位も、白河上皇の寵愛の故にそう呼ばれたと伝えられています。
興味深いのは『平家物語』の一部には平清盛を祇園女御が出産した白河上皇の御落胤とし、
ある書物には祇園女御に仕えた女房が生んだ白河上皇の御落胤として記録されています。
しかし、概ね一致した歴史の見方は祇園女御は不妊であったとされています。
そして祇園女御は待賢門院彰子を自身の養女とし、そのつながりで白河上皇も養父となっていきます。

(蓮の写真いずれも法金剛院で撮影したものです。)