この事件は短く言えば

    イングランドでのカトリック教徒迫害に対し、カトリック教徒が国会の貴族院を爆破し当時の国王ジェームス一世を暗殺しようとした事件です。

 その背景を少し…。

 1509年から1547年イングランドを統治したヘンリー8世、この国王が宗教改革の実行者であり、イギリス国教会を設立した人物です。

   宗教改革と言っても一般市民が宗教改革を行ったドイツにおけるルター、スイスのカルビンとは全く異なるものとされています。

まずヘンリー8世についてですが、彼の兄のアーサーが王太子であり、ヘンリー王子(後のヘンリー8世)が王位を継承することは当初予想されていませんでした。

ヘンリー王子及びアーサー王太子の父はヘンリー7世であり、ヘンリー8世はヘンリー7世の死後王位を継承しました。

しかし当初王位を継承すると予定されていたのはアーサーだったのです。

王位継承者としてアーサー王は当時強国であったスペインの王女、キャサリン・オブ・アラゴンと婚約します。この時アーサーは2歳、キャサリンは0歳でした。

しかしこの婚約はヘンリー7世がスペインに対し、多額の持参金を要求したためになかなかにまとまりませんでした。

何度も危機的な状況に面しながらもなんとか婚約が成立し、キャサリンがイングランドに上陸したのは1501年10月、ロンドンに入ったのは1501年11月12日でした。

そして11月14日、セントポール大聖堂にて華燭の典があげられます。この時のアーサーとキャサリンの結婚が実質的なものであったかどうか、が後に問題となってきます。

アーサーは1502年4月2日、15歳で死亡します。彼が王位に就くことはありませんでした。

しかしながら、スペインに結納金を返還したくなかったイギリスは、言い換えればヘンリー7世は、後のヘンリー8世とキャサリンを結婚させることを希望します。

 一人イギリスに取り残されたキャサリンは1509年6月11日ヘンリー8世と秘密裏に結婚します。

この結婚に先立って1509年4月21日、ヘンリー7世は崩御されていたので、ヘンリー王子は既にヘンリー8世となっておられました。

そしてキャサリン・オブ・アラゴンの女王としての戴冠式も行われ、彼女はヘンリー8世の最初の妻となるのです。

キャサリンには女児メアリー王女しか生まれず、脆弱であったイングランドの基礎を固めるためヘンリー8世は正統な男児の誕生を強く希望します。

そしてキャサリンの侍女であったアン・ブーリンに目をつけます。

王の求婚にも関わらずアン・ブーリンは正統な王妃となることを希望したので、ヘンリー8世はキャサリンと離婚することを計画します。

しかし、キャサリンの出身はスペイン。当時最大の強国であり、富国です。そしてローマ法王のとの結びつきも強かったのです。

カトリックは離婚を認めていません。ヘンリー8世の希望したことは、『結局キャサリンとの結婚は成立していない。』とのローマ法王からの宣言だったのです。

と言うのは、カトリックは当時兄弟との再婚を認めていませんでした。ですので、ヘンリー8世とキャサリンの結婚のために、スペインはローマ法王に依頼して

アーサーとキャサリンの結婚は成立していない、と言うことにしたのです。

しかし、今度はそれをひっくり返して、アーサーとの結婚は成立していたので、キャサリンとヘンリー8世の結婚は無効だということにしようとヘンリー8世は考えたのです。

ヘンリー8世からの実質的には離婚の要求にローマ教皇庁はスペインのとの結びつきが強く、肯定の返事を出しません。

で、業を煮やしたヘンリー8世はカトリックと袂を分かち、自身を首長とするイギリス国教会を設立することを宣言するのです。

苦労を重ねてアン・ブーリンと結婚しましたが、アンは結局女児(エリザベス1世)を誕生させたのみでした。

続いてアンの侍女、ジェイン・シーモアに目をつけたヘンリー8世はアン・ブーリンを反逆、姦通、近親相姦、魔術などの罪で処刑します。

そしてジェイン・シーモアが三人目の王妃となります。ジェイン・シーモアは男児、後のエドワード6世、を出産しますが出産後日を置かずに死去します。

それから4人目の妃がアン・オブ・クレーヴズ、5人目がキャサリン・ハワード、6人目がキャサリン・パー…と続きます。

  アン・オブ・クレーヴズは肖像画を見て結婚を決めたにも関わらず、肖像画と似ても似つかぬ人物と言うことで即刻離婚、

   キャサリン・ハワードはとっても美人でしたが幼い時からの家庭教師と密通したとして家庭教師とともに処刑、

    キャサリン・パーは殺される前にヘンリー8世が死去しました。

6番目の王妃、キャサリン・パーの居城

   スードリー城の門

 

スードリー城の城内の様子…

   最初、訪問した時は

こうして写真を撮影することができたのですが

後、写真撮影はできなくなりました。

  今も貴族の方が住んでいます。

スードリー城を飾るステンドグラス

  特に右側のステンドグラスはエリザベス一世

城内の庭園

  左の写真に見える毀され、部分が残っている建物は

 1642年から1649年の清教徒革命の際に破壊されました。

この清教徒革命の際に国会議事堂爆破計画のターゲットとなった

ジェームス1世の息子であるチャールズ1世が処刑されました。

  

スードリー城邸内の教会

  その教会内に埋葬されているキャサリン・パーの墓所