さて、ヘンリー8世が1547年1月28日に死去し、死の前に彼は王位の継承権はエドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世の順との遺言を遺します。
その遺言に基づき、王位は三番目の王妃ジェーン・シーモアが生んだエドワード6世に継承されます。
父王ヘンリー8世が設立したイギリス国教会に対し、エドワード6世はプロテスタント的宗教の確立、脱カトリック化を指導していきます。
ですが、エドワード6世の治世は短く1553年7月6日15歳で死亡します。
エドワード6世の死後の王位継承ですが、ヘンリー8世の遺言を無視する形で事が進んで行きます。
ジェーン・グレイと呼ばれる女性が彼女の母方の祖母がヘンリー8世の妹であったと言う根拠でイングランド史上初の女性君主として即位します。
ヘンリー8世の遺言に従えば次なる君主は第一の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの生んだメアリーである筈でした。
しかし、ジェイン・グレイの舅にあたる有力者ノーサンバランド公ジョン・ダドリーがエドワード6世の遺言書を根拠として
ジェイン・グレイの即位を推し進めます。
そこにはイギリスの有力者の一部及びイギリス国教会のうちにはメアリーの即位を避けたいという意図がありました。
メアリーの母キャサリン・オブ・アラゴンはスペインの王女であり、当然彼女はカトリック教徒でした。
彼女が即位をすれば、イギリス国教会は力を失い、イギリスがスペインの傀儡政権となるやもしれない、と言う恐れがあったのです。
対し、ジェーン・グレイはプロテスタントでした。まだわずかに16歳の少女が強い野心を持っていたわけではなかったのです。
ただ、周りの野心と欲に振り回されて、女王の地位に押し上げられてしまっただけだったのです。
ジェイン・グレイも当初は王位に就くのを拒否したと伝えられますが、最終的に舅、夫、彼女の親族、その他の人々の希望を入れて即位に同意したのです。
最終的に、彼女はメアリーの巻き返しに会い、王位9日間の短さで反逆罪と言う罪名で16歳で処刑されます。夫も彼女の一時間前に処刑されました。彼は19歳でした。
ジェーン・グレイの王位の短さに彼女をイギリスの君主としてみなすかどうかの議論があるほどの悲劇的な人生でした。
彼女について書かれた小説を読むと、何もわからず信仰の強さ故に説得され、王位に無理に上らされ、結果殺されていく過程が悲劇的に書かれています。
続いてはキャサリン・オブ・アラゴンの娘であるメアリーの即位でした。
予想通り、父王ヘンリー8世の設立したイギリス国教会につながるプロテスタントに苛烈な迫害を加えます。
女性、子供を含んで約300名を処刑したと伝えられ、『血まみれメアリー』のニックネームがあります。
スペインとの極度の結びつきを嫌うイギリス人の間でエリザベス1世を君主にと言う動きが常にあり、
メアリー1世の治世に反対して起こった反乱に関与したとの疑いでロンドン塔にエリザベス1世は幽閉されます。
ローマ法王及びスペイン側としてはエリザベス1世を亡き者にすることを強く望んでいたと言われますが
メアリー1世の健康状態が安定しないもとでエリザベス1世を処罰してしまうと
正当な王位継承者がいなくなるという主張でイギリス側はエリザベス1世の命を守りました。
このメアリー1世の治世、イギリスはカトリックに戻っていたわけです。
もし、メアリー1世の治世が長く続いていたとしたら、イギリスもカトリック国になっていたでしょうが、
彼女の治世も長く続きませんでした。
卵巣腫瘍のために治世5年、42歳にして彼女は死去し、自身の考えに反して死の直前エリザベス1世を自身の後継者として指名します。
即位したエリザベス1世は宗教的には寛容な戦略をとりました。
イギリス国教会の制度を更に強固なものとして行きましたが、その信仰を受け入れないカトリックに対しても処罰はメアリー1世の様に激しいものではありませんでした。
しかし、彼女の治世に会った大きな問題点、彼女は結婚しなかったために王位の継承者がいなかったのです。
そして彼女の人生を通じて大きな問題となったのはスコットランドの女王メアリー・ステュアートの存在でした。

写真はロンドン塔。
世界一大きな幽霊屋敷???
ここで取り上げたアン・ブーリン、ジェイン・グレイなど多くの幽霊が出現すると伝えられています。