昔金沢大学が金沢城址にあった頃の事。
城址は街の中心にあったので大学から出る門を選ぶことで
街の多くの場所に簡単に徒歩でアクセスすることができました。
石川門を出れば兼六園、宮守坂を降りれば香林坊と言う繁華街に、大手門を出れば近江町市場に。
大学から色々の場所に徒歩で簡単に至ることができるのが当時十分な資金を持たない私には本当に有難かったです。
上記の経路のうち、宮守坂は今はもうなく、或いは名前をいもり坂と変わっている様ですが、特に傾斜の厳しい坂道で雪の冬の日には使うのがためらわれる坂道でした。
木々が繁茂し昼でも日陰の多い坂道は勾配厳しく下り、下り終わると目の前に旧第四高等学校のキャンパスが明るく広がり、新旧の歴史の中で趣深い道でした。
香林坊は街の中の重要なアクセスポイントでそこからは前田利家お松夫婦の尾山神社、長町の武家屋敷跡、などに至ることができました。
そして一番の商店街である片町の繁華街にも。多くの飲食店街と大和百貨店があり、百貨店の名前一つをあげても近畿とは違う地域なのだと強く感じたものでした。
街の趣も人も私の大学時代とはずいぶん変わったように思います。
でも金沢と言う地名だけで穴の開いた靴で一人で街を歩きまり、生活を自分の力で支えていた若い頃が懐かしく思い出されます。
身なりも何も気にかけず、唯知識を吸収し、将来への野心をはぐくんでいたあの頃…。今はもう遠い昔の頃のことです。
さて、その片町の商店街から歩を進めると犀川に至ります。
犀川にはいくつかの橋が架かっています。この橋、犀川大橋が私が日常的に使う橋の中で一番下流に架かる橋でした。
この橋から上流に向かい、桜橋、下菊橋、上菊橋と続きます。この4つの橋が私の主たる活動範囲でした。
犀川大橋を渡り、右に曲がると狭い小路となりその右側の二軒目、雨寶院というお寺があります。

この雨寶院は明治から昭和時代に活躍した文豪室生犀星が少年時代を過ごした場所でした。
室生犀星の詩と言えば…
ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして悲しく うたふもの
よしやうらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや
ひとり都の ゆふぐれに ふるさとおもひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや (室生犀星作、抒情小曲集から小景異情その二)
とても大好きな詩でした。
特に最初の一節、ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
どれだけ強い感慨を込められていることでしょう。
この一節だけで、なんと多くの事を読む人に伝えることができるのでしょう。
私がこの詩に初めて触れた中学生の時、この最初の第一節が
途方もなく甘酸っぱい感傷に満ちている様に思われて、そのセンチメンタリズムに酔う様な気がしたものです。
好きだったので、色々調べてこの詩の解釈について様々に分かれていることも知る様になりました。
一番の疑問は、この詩は一体どこで読まれたのか?
最初に提唱されたのは東京で金沢を思って読まれた詩であろうという解釈でした。
萩原朔太郎が早くからその理解を唱えています。そして室生犀星もその考えを肯定する文章を発表しています。
では後半に歌われている“遠きみやこ”は一体どこなのか?
朔太郎は“ひとり都のゆふぐれに…”の都は東京であり、“遠きみやこに かへらばや”のみやこは金沢であると説明しています。
私見としても、これは少し無理があるのでは?と思います。
同じ言葉を使って異なる二か所を表現する??
東京大学教授、文学博士だった吉田精一先生は萩原朔太郎の解釈を踏まえたうえで異なる意見を述べています。
まずこの詩は金沢で歌われたものであろうと、そして都は東京を指すものであろうと。
そこには室生犀星の生い立ちから幼時の複雑な環境が反映され、懐かしい、けれどそれだけでは終わらない辛い疎外された思いを以てふるさとを歌ったものと、説明されています。
室生犀星、私生児として生まれ、生後すぐに前述の雨寶院に養子に出されます。幼児、継母とうまくいかず犀川に飛び込んで彼女の叱責をかわした、との記述が彼の書籍に書かれています。
川岸うろうろと行きつ戻りつしながら怒る継母を川の中から少し冷ややかに眺めている状況が書かれています。
義母の命令で高等小学校を中退し、金沢地方裁判所に就職するも最終的に東京に居を移していきます。
しかし一時は東京での生活にかなり困窮したようです。
そうした生活の中で歌った詩として読み返してみると新たな理解が眼前に広がるような気がします。
懐かしい故郷、帰りたいけれど帰れない、例え貧窮するとても頼るべき地ではない、金沢を離れる時のそうした彼の悲しい覚悟が切々と伝わってきます。
明治、大正期の多くの文学者が貧のままに生を終えましたが、彼は小説家、文学者として成功のうちに人生を72歳で終わっています。
しかし、功成っても52歳以後金沢に帰ることなく、自身の書斎に犀川の写真を飾っていたそうです。



左から金沢城石川門、兼六園徽軫灯籠、兼六園雁行橋

こちらは兼六園の有料の範囲内に入っていない場所なのですが、金沢の地名の由来となった場所とされています。金城霊澤と呼ばれます。
芋掘藤五郎が右の建物の湧き水で芋を洗ったところ砂金が出て来たとされています。
また建物の屋根の天井には龍の絵が描かれているのですが、金網が張られています。
でなければ、龍が下の湧き水を求めて逃げて行ってしまうから、と伝えられています。
昔はこの湧き水に硬貨を投げて底に落ちるまでにこの建物を一周できれば願が叶うと言われていたのですが…。
私が指導を受けたある金沢大学の教授の言によると
『願いを叶えて頂こうと思って重い硬貨を使うから
成就しないんだ。軽い一円玉を使って廻りを走れば達成できるよ。』
とおっしゃられていたのですが…。
果たして、その言の効果の程は…???今も謎です。