彼のアドバイスに従い、そのまま東京駅にタクシーで向かい、直近の新幹線の自由席に飛び乗ろうと考えた。
東京駅の構内を歩きながら涙が頬をつたった。誰かにぶつかったかもしれない。でもそのことに心を向けることはできなかった。何も意識せずただ『すみません。』と謝った。病院から借りた母の画像の入ったカバンだけは絶対に失っていけないと意識なく力一杯握りしめていた。新幹線に乗車するとなおさら涙は頬を流れた。涙の顔を人に見せたくなく、窓際に座り窓の外ばかりを見つめていた。窓の外を流れるように景色が後ろに飛んでいく。その景色も全く心に残らなかった。焦点の定まらない目で景色を眺めながら、『これからどうしよう。』と呆然と考えていた。
過去の楽しかった思い出は浮かんでは消え、消えてはまた違う思い出が浮かんでいく。それはもう二度と繰り返すことのない瞬間であった。母は死んでいく、確実に。そう思うと涙はとめどなく流れてくる。しかし泣きながらもこれから何をすべきかと考えなければならない。お目にかかったドクターからのアドバイスであった。それが今となっては私にできる唯一のことであり、真実を知る私だけができる事であった。『あのがんセンターの先生にお礼状を書くこと。今回東京行についてアドバイスをくれた友人に報告の手紙を書くこと。そして資料を貸してくれた病院のドクターに報告の手紙を書くこと。それから、それから…。私は一体何をしなければならないだろう。』がんセンターに到着が遅れることを恐れて今日は朝食を食べてはいなかった。昼食の時間であったが全く空腹は感じなかった。奇しくもその日は1年前従姉妹とともに母の病気の完治を祝って東京ディズニーランドに遊びに出かけたその日であった。あの時は母の完治にどれほどに嬉しかったことか。それがわずかに1年の間にこれほどの状況に至っていようとは。あの時にあれほどにうれしかったゆえに、今のこの母の状況は余りに不本意な悲しいものであった。でも泣いていてはいけない。時間は限られている、と説明されたのだ。その時間は明日かもしれない。彼に教えられた通り、母の死に向けて少しずつ着実に準備をしなければならないのだ。
和歌山での看護の日々は再び始まった。東京に行く前と同じように。すぐに母は支えがなければ歩けなくなった。
もともと入浴が好きだった母であるが、自宅のローンを支払うために水道の水を含めてすべてのことに節約する癖が私達家族にはついていた。悲しいほどにわずかしか浴槽に水を張っていなかった。今はその浴槽に身を沈めればあふれるほどに水を張って母の体を沈め、支える。『ああ、本当に気持ちがいいわ。いつもこうしていればいいわね。本当に体が楽になるわ。』と母は喜んだ。しかしその母に父は『入浴は体力を落とすから控えた方がいいよ。』と言った。母の命が明日にも終わるかもしれないことは私しか知らない。父にはがんセンターとのドクターとの話はおろか、東京にがんセンターを訪ねたことさえ話していなかった。母の回復を願う父ともはや明日がないことを知っている私とは立ち位置が違っていた。その状況のもと、理解不足を父に責めたところで意味がないし、父の責任でもない。どう答えていいのかわからず立ちすくむ私はおそらく不本意な顔をしていたのだろう。何も言わない私を『親を馬鹿にする娘。』と父は詰った。私は『馬鹿にしていない。』と言い返した。そして心の中で『お父ちゃんは何もわかっていない。』とつぶやいた。しかしそうした父と私の摩擦が母にはつらかったらしい。『入浴したい。』とそれ以後口にすることはなくなった。
次第に夜と昼が逆転し、夜も私は休むことができなくなった。もともと持っていた私の不整脈はひどくなり、足だけでなく、顔にも浮腫みがみられるようになってきた。自身の体を顧みている余裕はなかった。母が寝ている間に魚、肉の上質なものを用意し、色々に味付けをし、少しでも母が食べられるように柔らかく調理した。そのほとんどを母は口にすることができなかった。でも母のために調理をしていることが私にとっては小さな心の安らぎであった。
寒い、布団が重いと言う母に知り合いの布団店に行き、事情を話して質の良い、軽い羽毛布団を買い求めた。しかし母は『そんな高価なものを。』と使うことを躊躇した。そこで私は父に使うように勧めた。父は布団が軽くて気持ちが良いと喜んだ。夜半意識が定まらないにもかかわらず母は『布団が重い。寒い。』とうわごとを言い始めた。『今だ。』と私は飛び起きた。まず父の所に行き『お父さん、ごめん。』と言って父が着ている掛布団を引きはがして普通のものに変えた。そして羽毛布団を抱えて母のもとに急ぎ、母が着ている掛け布団と交換した。すると母のうわごとはすぐに止まった。その次の日の朝に母は『この布団気持ちがいいわね。軽くて暖かくて。よく眠れたわ。敷布団も同じものがあるのかしら。』続いて布団店に急いだ。しかし布団店のアドバイスでは『こちらの方がいいですよ、羽毛布団は柔らかすぎて敷布団には向きませんから。』と言われ、勧められるものを購入して戻って、また入れ替えを行った。
そんな努力の色々にもかかわらず母の体力は着実に落ちていった。トイレに立つこともできなくなり、ベッド上で尿も便も取るようになった。必死になれば私でもおむつを替え、尿器を使用する手助けをすることができた。それまでに子供さえ育てたことがなかったのに。直腸がんの手術以後、母は陰部の皮膚のトラブルを繰り返すようになった。おむつを替える時には、お風呂から熱いお湯をバケツに組んで来、その湯に浸したタオルを適温とし、そのタオルで優しく拭くと皮膚あれはほとんど起こらなかった。念のために赤ちゃん用のアルコール綿で清拭し、クリームも塗ることとした。しかしこの適温と言うのが案外に難しかった。時期は冬であった。絞ったタオルは冷たい気温のためにすぐに冷えてしまった。で、バケツに汲む湯の温度を上げることとした。湯の温度を上げたために手を浸けるのが少し厳しくなった。一度は手袋を使用したが、手袋では湯の温度はわからなかった。これでは母の陰部に火傷をさせてしまう、危険だと判断した私は一度きりで手袋の使用をやめた。そして素手のままでタオルを湯につけ、絞ることを決めた。かろうじて手を浸けられる温度の湯にてタオルを絞る。そしてそれを空中に2,3度振りかざす。すると丁度の良い温度になることに気が付いた。しかしこの作業を日に何度となく続けていると私の手の皮膚は火傷のためにただれてはがれてきた。今から思えば、私の行為は道理を伴わない馬鹿なものであっただろう。温度計を使用するとか、手に火傷を起こさずにタオルを絞る方法などいくらでもあったはずであった。しかし、その火傷の痛みを耐えることが私への慰めであった。母のために自身の身を痛めて何かをしている、その実感が欲しかった。その痛みが祈りに通じることを願うだけであった。