その日に通夜を行うと葬儀が友引となってしまうとのことで、母の通夜は翌日に、葬儀はその翌日と決められた。日延べされ、心に余裕ができて親類の人々から緊張が消えた。
少しのんびりした状況で、伯母の夫たる人、父の兄、弟、それに私を含めて翌日からの葬儀の細かいことについて相談が始まった。心の中で、『あの葬儀社でなければ自分が色々と見積もりをしていたものが無駄になってしまう。どうしよう。』と思いまどいながら、葬儀社については母の遺体を病院から運んだ会社ではなく、私が手配をかけていた会社にして欲しいと私は主張した。病院から手配された葬儀社にはわずかだが妥当以上の金額を支払い帰って頂くこととなった。少し不本意な表情を浮かべて彼らは去って行った。そして私が事前に接触していた会社から番頭格の人が訪問してくることとなった。
彼が到着すると父の弟が彼の人間性を見定めようとしているかのように、やや失礼な態度で上から見下すような態度で質問を放った。その傲慢な態度を見ていると、もやもやとした不快感に私は襲われた。彼はいつもこうであった。虚勢を張っている、と私は感じていた。今回は未熟な私のために代弁しているつもりなのかもしれない。しかしそれよりも母方の親類との力のせめぎあいもある。現に母が入院していた時も叔母と個室では鉢合わせをし、叔母が挨拶をしなかった、と、後で私に苦情を言っていた。どちらが主たる立場なのか、わからせてやる、と考えているのかもしれない。確かにこれは五味家として出す葬儀であるから、彼らに分があるのかもしれない。でも彼よりも近しい父と私がいる。それよりも彼が緊張感を高まらせて、その勢いのままに他の親族と喧嘩を始められてはたまらない。
私は叔父の介入を妨げることを決意した。『この方は私達が非常にお世話になっている人から回されてきた人なので大丈夫ですよ。』この言葉で私は叔父の口を封じた。話の腰を折られた叔父の感じた不快感は場に漂っていたけれど、それ以上に何も言ってはこなかった。彼は自身の仕事の図面を持ち出し、それを読み始めた。それを横で眺めながら色々な言葉が喉元まで出てきた。若かった私は叔父を尊敬してはいなかった、そしてそのことは態度に出ていたと思う。
葬儀社の人間を含めて本題についての話は始まり、すぐさま父は母実家の菩提寺に母のための墓所の提供を依頼している事、菩提寺は快く了承していると語った。
実は母の死の数日前に私は母を葬るための墓地を求めて和歌山市内のある寺を訪れていた。その寺は龍神村にある父方の菩提寺と同じ宗派を名乗る寺であった。父の親類のうち早期に龍神村から和歌山に出て来た人はその寺を頼り、その寺に眠っていた。したがって父方の宗旨をこれからもよりどころとするのであれば、その寺以外との関係は考えられなかった。母をこの寺に眠らせるかどうか、と言うよりこの時にはこの寺に頼るしか方法はないように思われた。
しかし寺の僧職の方に案内された墓地の候補は悲しくなるほどに私の期待を裏切っていた。その土地にはびこる植物の根、それは墓地として使用しようとする土地の傍に生える木から伸びるものであった。その大きさから考えてこの木が切られることはなさそうであった。墓に伸びてくる木の根、そして樹の枝は蔭を作り、土地に暗い寂しい雰囲気を与えていた。雨上がりで、木の枝からしずくが落ちていた。この土地が墓地としてふさわしい土地なのか、どうなのか私の目にはわからない。しかし、中心部に整然と立つ墓碑群に比べるとこの場所に墓石を建てたとして、何か疎外されたものと言う印象がすることは避けがたいように思われた。自身の不甲斐なさに涙が出そうになって目を閉じた瞬間、かすかに幻が浮かんで、消えた。木々から落ちる雨のしずくが地面に降りかかっている。その地面が冷たく泣いている。
その地面の中で母の遺骨が雨に濡れそぼって泣いている。『寒いだろう。冷たいだろう。母が凍えている。母の魂はこの地にはとどまらないだろう。暖かいふるさとの青い海を求めて飛んでいくだろう。ここは安住の地たりえない。』この地を求めることはできない。僧職もそれほどに頼れる人物とは思えなかった。しかし、この場所しかないとすれば、そんな贅沢を言っている場合ではないのかもしれない。考えを振り絞って尋ねた。『となりのもう一区画を購入することは可能ですか。』しかし彼は『それはできない。』と答えた。限られた土地にどうにか拡張して墓地を作った、と理解できる状況であった。一軒の家族にどうにか作った土地を二区画分けてしまえば、折角の拡張は意味ないことになってしまう。彼の答えを当然としつつも、それではなおさらにこの土地に母を埋葬するのは私に取って心折れることであった。『もう少し考えます。』寺を辞した後、この問題は私の心に刺さっていた。
しかし、父は母の菩提寺に話ができている、と語った。何よりの知らせだった。だが、父と娘が協力してそのことを計らったのではないことが私の気持ちの落ち着き所を失わせた。父は母の両親を助けて母実家の実質的なことを行ってきたから、母の菩提寺と直接的に話をすることができた。『美愛子は菩提寺から見えるあの海がとても好きだった。そばにはあいつの両親も兄も眠っている。あそこに葬ってやるのが一番喜ぶことだと思う。』ここまでは納得できた。何と思いやりのある言葉かとうなだれた。しかしこの次に出た父の言葉が私を凍り付かせた。
『わしに万が一のことが有った時、美智子がわしをあそこに葬ってくれるか、どうかわからないが。』こうした言葉が私に父を最も嫌わせた点であった。母の実家に対する劣等感からくる言葉なのか。父一人龍神村に葬りに行くことなどありえない、私達親子の間に色々のことが有ったことは事実である。それらをもってしても父と母と別の場所に葬ることなどありえない。父自身が母の菩提寺を忌避するならともかくとして。
しかしこの言葉はその後に伯母たちに格好の口実を与え、『美愛ちゃんは死んで離縁され帰された。』とささやかれることなった。その当時の菩提寺の住職の方は母の同級生であり、彼自身の母への追憶から母の墓所としてこの上のない土地が私達に提供されることとなった。この時の父の判断は間違っていなかった。竜神村の父たちの先祖が眠る墓所は狭い村道より人ひとり歩くのがやっとな上り坂を15分ほど登った深い木立の中にあった。私が子供の頃には村はまだ土葬であり、昼でも暗い深い木立の中に点在する墓地は山の斜面に苔むす墓石、卒塔婆が傾き、倒れ、足を踏み入れ難い場所であった。龍神村に至る事さえそれほどに楽なことではないのに、そこから墓所に至る労力を考えると、私には気の遠くなるような大変な墓参りに思われた。あの山の中に母を葬りたくないという気持ちは強かった。母は龍神村にそれほどに親近感をもっていなかった。母にとっての龍神村への感情は、父が電信柱から転落し貧窮のどん底に落ちた時、やむをえず縋った母を突き返した義父の象徴であった。そこには怒りの感情しかなかった。母を龍神村に葬るなど論外であった。あの激しい母が怒り狂うだろう、いつもの様ににこにこと笑いながら。そうした事情を考えると、父の決定は母にとっても私にとっても何よりの事であったのに父のこの言葉が父に感謝しようという気持ちを私から奪った。結論として、父の案は母の親類からは不承諾で、父方の親類からはもろ手を挙げて賛成されるという結果になった。そして葬儀の僧侶の方々も御坊からお運び頂けることに決まった。それに対し、お寺の方からは『供養料は御坊の在所の相場でなく、和歌山市の相場として処して頂きたい。』の言葉があった。
次に私は母が眠っていた和室の押し入れの戸を開けて、上の段によじ登り、押し入れの天井の裏に手を伸ばした。それは母の言い残した言葉によるものだった。私はすべての収入を母の手によって取り上げられ、銀行の預金として預けられていた。母自身はタンス預金が好きな人であったが、母の発病以後万が一の場合を恐れ、母の隠し預金のあり場所を聞き出し、全て銀行に預けていた。それに対し母は『でもね、人の家では現金が必要なこともあるのよ。緊急の際のお金として6畳間の天井の裏にまとまった現金を置いてあるから、何かの際にはそれを使いなさい。それだけはそのまま置いておきなさい。』母の葬儀の準備のために私はそのお金を自身の手元に置き、使用しようとしたのである。私の突然の行動に集まっていた親類は驚いたが、私は葬儀代として母から託されていたお金がここにあると説明すると一同は納得した。
伯母の夫たる人はこれまで一度も私達の家に来たことがなかった。彼の記憶にある私達家族は堺市から乞食同然に引き上げてきた、その姿だけであった。それから二度にわたり自宅を建築し、それと同時にもう一軒の家屋を所有しているなど考えもつかないことであった。叔父は私達を慮りできる限り経済的な葬儀を提案してきたが、私はそれをすべてひっくり返した。棺はどうせ燃やすのだからと簡素なものを提案したが、私は側面に豪華な彫り物が入ったものを依頼した。そして棺の上に掛ける布を非常に高級な金襴のものとするように葬儀社に命じた。祭壇は6畳間をすべて使う形で個人の家としては異例の大きさのものを、すべて生花を使用して造り上げるように依頼した。霊柩車の後ろを走る車を個人の家の自家用車を使うことを提案してきた伯父に生前の母の言葉を引用し、当時和歌山から高級とされていたタクシー会社から10台のタクシーを貸し切りとした。惜しげもなくお金を使う私に親類すべてあっけにとられた。自身のやっていることが分かっているのかといぶかった。母の死が近いとして私はすでに葬儀社に自分の希望を話し、金額的なことの概略をつかんでいた。母のための計画は支障なく行える自信があった。そして私の頭の中であの時の東京のドクターの言葉が響いていた。『これから君はお母さんのため、色々のことをシミレーションしていかなければならないであろう。でもお母さんの気持ちを理解して進むことができる限り間違えることはないであろう。』困窮の極みを経験してほぼ無一文で和歌山に来た両親がここまでの財を築き上げたのは母の貢献も非常に大きいものがあった。その母の旅立ちに可能ならば現在の財の半分を持って旅立つ権利があると私は考えた。でも残念ながら何も持たせることはできない。しからば母の最期の旅立ちにふさわしいものにする、と言うのが私の決意であった。残念ながら私のこの考えは叔母たちの嫉み心を煽る結果になってしまったようであった。しかし、こうして現在の我が家の財力を叔母たちの眼前に見せながら、通常以上に母のために豪華な葬儀を行うことは、仏壇を内緒で持ち出した叔母たちへの私からのひそかな復讐であった。仏壇を持ち出したのは未だ決着していない祖父の不動産の相続を今後自分たちに有利に運ぶ手段として利用することを目的として実行したことを私は気づいていた。
これを出すことが正しい事なのか、どうか…
ためらう気持ちは強いですが…






