長く、母の発病から死へと至る出来事を書いてきました。
これは私が31歳から33歳に起きた事でした。年齢の未熟な私がすべての事を仕切らなければならず、また母もそれを強く望んでいる事は自覚していました。
私以外やるべき人はいないと言う覚悟のもとに一心不乱に行っていきました。
若さゆえに一途であり、振り返るともっと巧みな方法もあったのではないかと思えることも多くあるのですが、今となっては過去はどうにも変える事はできません。
言い訳となりますがあの時はこうするしかなかったのだと強く言い訳する気持ちはあります。
前章は母の遺骸が自宅を出発することで終わっていますが、実はこの後も叔母たちとの軋轢は存在しました。
精進上げの料理に対して貶める言葉を口にしたこと、7日ごとのお寺のお訪いの際の振る舞い、様々の事が起こりました。
それらをここに認めることは叔母たちの人格を否定すること以外の目的を達しません。
母の死までは、常識とは一般にすべての人に共有する普遍的な価値を持つものと考えておりましたが、
そうしたものではなくその人間の育った環境強くは両親から引き継いだ価値観、考え方ひいては歩いてきた人生から形成されるものだと認識を改めるに至り、自分自身は人生の王道を歩きたいと考えるに至りました。
しかし、この考え方自身も危険でそれゆえに父の生き方を否定する結果となり、母の生前から燻っていた軋轢を大きな炎へと変えていきました。
その状況に絶望して医学への道へと舵を切る様になって参ります。
今思えば自分が選んだというよりも人生がその様にもともと決められていたとも考えられない事はないのですが、この時は目の前に来る大波に何とか飲み込まれない様にと生きるのに必死で何も考えてはいませんでした。
タイトルは変わりますが引き続いて読んでいただければ幸いです。
父は努力の人であった。幼い時の私は父の努力、精神力の強さを尊敬していた。彼は家族が住む土地すら所有しない和歌山県龍神村の貧農の出身であった。龍神村、祖父の住んでいたあたりには平坦な耕作地はほとんどなく山林が大部分であった。村の多くの土地は地主たる三軒の家で所有されているのだと大人たちが話すのをたびたび耳にしたことがあった。祖父たちが暮らす家が建つ土地もそうした地主の一軒が所有するものであり、祖父自身のものではなかった。今も目を閉じれば、祖父の家の広い濡れ縁から眺めた日高川のゆったりとした豊かな緑の流れが目に浮かぶ。その美しさを幼い時の私は存分に味わった。母の実家の御坊市は町の雰囲気を感じさせるのに対し、父の故郷の龍神村は異世界であった。日高川の流れに沿うくねくねと曲がる細い道を最寄りの駅から3時間以上の時を掛けてバスは祖父の住む集落へと近づいていく。車窓から見える景色はどこも美しく輝いて見えた。祖父の家の最寄りのバス停が近づいてくると曲がって続く道ゆえに遠くからでもそのバス停の光景を車窓より捉えることができた。バス停付近の景色が見えるようになると、私は心が沸き立った。あの楽しい美しい日々がやってくる、と夏休みの始まりより待ち焦がれていた日々であった。バス停にはいつも祖父が迎えに来てくれた。祖父に迎えられてバスを降りると、その空気は全く異なる冷ややかなさらりとしたものであった。暑い和歌山市から着くと気温の変化と相まって生活は快適なものへと変わった。吹く風はさわやかに心地よく、日の光も身を焼くほどに強くはなかった。日陰に入れば夏の暑さの厳しさは消えて、澄み切った空気のさわやかさ、清冽さのみが感じられて心地よかった。村の中央を走る道を歩けば、山からの清水が流れ落ちる谷川をいくつも眺めることができた。祖父の家もそうした山から流れて落ちてくる谷川の傍らにあった。家の真横の谷川の部分を人為的に広くし、屋根を張り、その屋根より自在鍵で調理したばかりの粥、茶などつるし、冷やしていた。きゅうり、まくわ瓜などがふわふわと谷川の水の中に浮かべていることもあった。洗濯に使用するやや重い木製のたらい桶をその空間に浮かべ、桃太郎を気取るのが私の好きな遊びであった。一度も試みに成功したことはなかったけれども。たらいに自身の身を載せることもできなかった。それでもぷかぷかと浮いている野菜や果物を避けて洗濯に使うたらい桶を引きずるように持ち出して谷川に浮かべるのが私の日課であった。谷より見下ろすと日高川は眼下にあった。その豊かな流れはとても美しかったけれどさすがにそこで一人で遊ぶほどの勇気はなかった。谷川は流れを家の横でゆるやかに止められるよう堰が作られ、水の深さはふくらはぎの中央までしかなかった。その水だまりを起点として上流に向かって時折水の中を歩いた。片側の壁が石積みでできており、その石の間より蛇が出没することもあった。蛇が嫌いな私は石垣の間に生えるシダの間を蛇がいないか集中して見つめながら、冷たい水の流れの中で足を踏みしめながら歩いた。巨大なシダの葉、葉の細かい小さなシダ、その違いは私にはわからなかったけれど、いずれも清らかな水に育まれ、健康に育っていた。葉は谷川の水のしぶきを受けて重そうにお辞儀をしていた。初夏にはそのシダの上にホタルがぼっと幻想的に輝き、また時には夕方より夜半にかけて谷川をホタルが乱舞することもあった。息をのむほどに美しい光景であった。谷川を歩けば水は身を切られるほどに冷たく、サンダルから足の底に入ってくる谷底の石さえも冷たく、その冷たさは夏の暑さの中で心地よいものであった。時折は水の中に立ち止まってサンダルをさかさまにして石を捨てなければならなかった、すると小さな名前も知らぬ谷に住む小魚がツンツンと私の足にあたった。さらに上流へと歩くと祖父が家事のために引き入れている水の取口を眺めることができた。竹を縦に二つに割り、節の除き、わずかの高低差をつけながら家の方へ、台所にある水がめに、浴室の五右衛門風呂にと引き込んでいた。その水が祖父の家での唯一の生活水であった。その水を導く竹筒の支えも細い竹でできていた。竹筒を流れる水を手でくみ上げ、直接口に含めば甘い味がした。
時折、祖父は私のために自宅の裏山から山歩きに連れ出してくれた。幼い時の私は運動能力に遅れた子供であった。1歳半頃に至るまで、歩き始めることはなかった、と言う。歩き始めても始終転倒を繰り返し、足は転倒のために傷だらけであった。傷は厄介な経過をたどり、医師の治療を必要とすることが多かった。もう少しスムーズに歩くことができるように、歩かせて運動能力を高めてほしい、と言うのが祖父に両親が頼んだことであった。祖父とともに山に入ると祖父の家にいた時とは異なる風景が広がった。三角形に多数の木を持たせかけている風景が山の斜面の随所に見られ、祖父にあれは何なのかと尋ねた。シイタケを栽培するためのものだという祖父の答えであった。長く、深く山の中に入り込んだにもかかわらず、そうした生活を支えるための努力を目にし、驚いたことを覚えている。山の低いところを歩いていた時にはちらちらとみえていた祖父の家もうっそうと茂る木立にさえぎられて見えなくなり、山はますます深くなっていった。日の光はほとんどささなくなり、随所にみられていた谷川は幅が狭く、勢いは強くなり、その中に茂るシダもますます巨大なものとなっていった。木立のために日はほとんどさしこまず日中でも薄暗かった。幼い私にはそうした場所は人が足を踏み入れたことのない場所に感じられて感動したものであった。しかし細道が続いていたのを今考えれば日常的に村人によって使われていた場所であったのだろう。私が祖父のもとに滞在するのと同時期に父の長兄の娘があるいは父の弟の娘が祖父の家に滞在することもあった。時折、従妹たちも同道することが有ったが、私の父とは異なり、かなりの年齢まで両親がこの村で過ごした彼女達には自身が訪ねたい友人がおり、ほとんどの時は私と祖父だけで山歩きを行った。私一人で山に入ることは許されていなかった。祖父との素晴らしい不思議な体験をもう一度味わいたくて山に入ろうとしてその道を探したがことが何度かあったが、私だけでは見つけることができずまたもちろん祖父の家が見えないほどに遠くに行くこともできなかった。
父の長兄には娘が三人、父の弟には女児が二人であった。結果、私の父方の従兄弟姉妹関係は私を含めて女児ばかりの6人であった。もうすぐこの家系は継ぐ人がなく消滅する。現在祖父から続く苗字を使用しているのはもはや私一人である。私を以てこの姓はこの世より消滅する。それもまた世の習いではないかと私は思う。常に常春と讃えられる母の故郷とは異なり龍神村は美しくも厳しい風土であった。和歌山県の南部は多くの集落が海岸沿いに並んでいる。黒潮の影響で冬でも暖かく土地よりの収穫は冬でもなにがしかを得られ、海も豊かな恵みを人々にもたらした。人々の食生活も豊かなものであった。しかし龍神村はどうであっただろう。海沿いの南部市、田辺市よりアクセスするのが常であったが、その旅程には全く人のすまない場所が長く続いていた。そうして突然、人家が散在することとなる。夜間に車でその道を辿ると、イノシシ、キツネ、ウサギなどの野生動物に出くわすことが多かった。最近主人と龍神温泉にて湯あみをしたのち、高野龍神スカイラインにて自宅に帰宅途中、私達の車はもう少しで鹿と衝突するところであった。美鹿は見事な角を頭にたくわえ、私達の車の直前を横切ると、道の傍らの小高い場所にすっくと立ち、じっと私達の車を見つめていた。不思議な体験であった。中学生高校生の頃の私は自身の浅い知識で龍神村の端にそびえる護摩壇山に平維盛伝説があることから、勝手に龍神村を平家の落人集落と決め、自身も平家の生まれ変わりかもと空想して楽しんでいた。

