貧のどん底にあえいだ3年間だったと言います。
そしてその3年間のことを両親は私に何度も語りました、貧の苦しさ、みじめさを。
父の転落事故が起きた堺から、和歌山市に親類を頼り引き揚げてきたのは私が三歳の時。
事故の影響から少し生活が落ち着いてきたのか、堺での生活を見切ったのか、当時両親は何を考えていたのか私は知る由もありません。
和歌山に引き上げた頃のことが微かに記憶に残っています。みすぼらしい錆びた工事現場の様な鉄骨の梯子で上るアパート。
その梯子段の険しさのゆえに私はなかなかに階段を一人で降りることができなかった。
後ろ向きにそろそろと片足ずつ梯子段を確かめながら、長い時間をかけて降りる。
そして道を渡ると両親が働いているクリーニング工場であった。
今その道は中央に緑地帯のある広い交通量の激しい二車線の道となっている。
その道の傍らの広い歩道に立つと、この道をよくもよちよち歩きの三歳の私が渡ることができたものよ、と呆れる。
その激しい変化はあれからいかに長い時が経過したかを何よりも如実に示している。
あの頃、私達も貧しかったが、日本も貧しかった。
このアパートからすぐの所に和歌山駅の駅舎がありました。
その駅舎も今とは異なる小さな木造モルタルのもの、そう私の記憶に残っています。
広くない舗装されていない道が駅から続いていました。
その道の両側には露天商が並んでいました。客の目の前、簡易なテーブルに品物を並べ、屋根のテントからも商品が吊るされていました。
繁華街の辻々では手や足の一部を失った傷病兵が喜捨を求めている姿を見ることがありました。
多くは、2,3人がグループとなっており、白い装束を身に付け、足の無い方が地面に跪いていたように記憶しています。
時には小さいアコーディオンを抱えた人が軍歌などを奏で、通り過ぎる人の注意を引こうと努めていたように思います。
そんな情景を記憶している人も少なくなったとは思います。
その後、その街中の狭い、荒れたアパートから少し静かな地域へと引っ越しを果たします。
しかしまだ一軒の独立した借家に住むほどの余裕はなく、富裕な家族の離れ屋を格安で借りたのである。
邸内の和室に面して土間があり、そこは奥へと続く通り道であった。
その通り道を通って中庭に続き、その中庭の向こうに離れ屋があったのである。
その本宅の邸内の土間の道を通り抜ける以外に離れ屋にアクセスする方法はなかった。
家内は一間しかなく、台所も狭かった。
借家の中に居ても寂しい。
外に出て夕闇の迫る中を両親の帰宅を待つ。
少しの借家と、比較的豊かな数軒の家が混じる地域であった。
豊かな家はどれも大きくそこに住む人とは接点は全くなかった。立派は門構えの邸内と大きな犬。
到底私達の当時の生活からは別世界であった。
借家の子供たちは夕に外に出て遊んでいた。
しかし近所の子供たちからもなんとなく距離を置かれていた。
その頃は両親がともに働いている家庭は少なく、
借家の他の子どもの母から親切心から『何か食べる?』と時折声を掛けられた。
その問いに不用意に答えて食べるものをもらうと、それを知った母から厳しく叱られた。
『そんな物乞いの様なことをしてはいけない。』と。
私は心の中で
『私から頂戴と言ったわけでないのに。』と思い母親の叱責が納得できなかった。
物欲しそうな顔をしてはいけない、とも叱られた。
物欲しそうな顔がどんな顔なのか、4,5歳の子供にわかるはずがない。
母親は必死になって自身の誇りをつなぎとめていたのではないか、と今私は思う。
最初は父の自転車の荷台に括りつけられたかごの中で、後にはポンコツの軽自動車の後部座席に放り込まれて
両親のクリーニングの外交に伴われることが増えて行った。
この頃の思い出で鮮烈なのは半分もらった中華そば、やはり半分もらった肉まん。
そして私は自分の家が貧しい事を自覚していた。
それでも車の後部座席でやはり本を読んでいた。
それは父からあてがわれたものであった。
そして私が小学生になる頃に両親は再度の引っ越しを試みた。
今度は、初めての一軒家の借家だった。
しかし、私の記憶に残るのは引っ越しにまとめられた荷物の中で言い争いをする両親だった。
家賃が払えない、と主張する父と、こんな状況で美智子の教育にも好ましくないと主張する母と
夜半に延々とお互いに主張を繰り返していた。
戸惑いながらも、両親の言い争いを日常的なものと諦めていた私は
『どうするんだろう?』と思いながらもやはり本を読んでいた。
本を読むことはこの頃の私には逃避手段ともなっていた。
両親の考えはいつもかみ合わない、と感じていた。
後に皮肉を込めて私は石橋を叩いても渡らない父と燃える橋を突きっていくのが好きな母と、口にした。
或いは男性の皮をかぶった女性と、女性の皮をかぶった男性と、とも口にした。
本を読み言葉を豊富にし、実際と違う本の上で他者の人生を皮肉的に眺める事を学び両親の有り様を冷たく眺めるようになっていきました。


