父の入院を取り計らい、癌と言える状態にまで進行しているのかどうなのか、

検査の結果待ちとなった。

しかし私の中には何か言葉に言い表せない予感のようなものがあった。

それは母の死を通して私の中に培われた癌と言う病気に対しての恐怖だったかもしれない。

或いは次から次へと襲い掛かって来た人生の転変に対する諦めであったかもしれない。

父の病気は癌と言える状況まで進行しているのではないか、と心の底では考えていた。

父の病気を癌だとすると、そこには大きな問題が立塞がって来る。

それは父に病名を教えるかどうか、と言う事であった。

母は正確な病名を知らないままに逝った。そこには知りたくないという彼女自身の希望も反映されていた。

彼女の父方の家系は残念ながら多くの人ががんで死亡していた。そして祖父自身も。

対し、祖母の家系には癌で死亡した人はほとんどいなかった。唯一は幼い祖母を引き取って育てた彼女の叔母のみであった。

その代償とは言えないだろうが、祖母には生涯にわたり悩まされた呼吸器と心臓の病気があった。

祖母の状況が悪いと祖父から両親が呼び寄せられ、和歌山市から御坊市に夜半に車で駆けつけることも一度や二度の事ではなかった。

しかし母はそれらの病気の症状を全く示していなかった。兄弟姉妹はほとんどがその病気の存在を示していたにも関わらず。

『私の体は鉄でできているのよ。』と母は口にし、自身の健康について絶対的な自信を持っていた。

その強さは自身の父由来だとも口にしていた。

しかし祖父が直腸がんで死亡するとその自信は奇妙な方向に屈折した。

『私も直腸がんで死ぬのよ。』と。

実際母の癌は直腸がんとして始まった。

癌を発症した時、母は病気について知ることを拒否した。

代わりに私をキーパーソンとして主治医に伝えた。

『すべての事は娘に伝えて下さい。あの子はしっかりしています。主人はダメですよ、気が弱いから。』

私は母の意向を汲み取り、最後まで母には病名を告げず、走りとおした。

しかし、医師からの母の病状説明に父はいつも立ち会っていた。

当然父は母ががんであった事は知っていた。

放射線療法も、化学療法も、脳に入れられたドレインの事も。

部位は違うとは言え、その父から彼の病気が癌であると隠せるだろうか。

即座に私は打ち消した。

それであればもう最初から告げるしか方法はない。

代わりに父のために癌に特化した最高の病院を探そう、そう考えて東京で与えられたドクターのメモ書きを取り出した。

あの時、『困ったことが起きたら電話しておいで。』とおっしゃって自身の名前と電話番号を記してこの紙を私に下さった。

母の最期までとうとう使うことがなかったけれど、今父のために使うことが可能であろうか。

手の中の紙を見つめて私はじっと考えた。

数日後、私はドクターから父の病状について説明したいと言う事で病院に呼び出された。

やはり、父は肝がんであった。