一回目の化学療法が終わった時には、
『へえ~たいしたことないわね。』
と思いました。それほどに体もしんどくなく、吐き気もあるわけではなく
何か拍子抜けの感がありました。白血球を増やすための注射もそれほどにインパクトなく…
しかし2週間たつ頃から、髪は着実にばっさ、ばっさと抜けていきました。
髪の毛だけでなく、眉毛もまつ毛も陰毛も…
それこそ、見事に…
で、昔従姉妹とやらかした喧嘩のことを思い出しました。
私より少し年上の従姉妹は今から13年ぐらい前、丁度私が日本に帰ってきたころに直腸癌を診断されました。
3人姉妹の中央の彼女は結婚をせず、自宅で母と暮らしていました。
『姉、妹に心配をかけたくないし、彼女らちょっとうるさいし。』
と彼女の言葉に私は自分に縁のあった病院を世話をし、手術の際も私が頼まれてサインをしました。
その後もその病院にて経過観察の受診を続けた彼女ですが
ある時非常に微小な肺転移を疑わせる病巣が偶然見つかりました。
種々の理由により検査のたやすくできる場所ではなく
がん転移であるとの確定診断には至っていないもの、
当時消化器外科とともに、診療にあたっていた呼吸器内科は強く化学療法を勧めました
母と同じ様な経過をたどろうとしている彼女に私も非常にショックを受け、早期に抗癌治療を勧めました。
地元から少し距離のある病院にかかっていた彼女は『化学療法のための通院が辛い。』と主張し、化学療法のための通院を拒否しました。
で、私は診療病院から地元病院への詳細な紹介状を取り寄せ、
化学療法を地元で行えるように手配しました。
しかし地元病院の医師は『がんでないのに指示だけでうちが化学療法を行うことはできない。』と言い、結局髪を失うことを恐れていた従姉妹はその言葉にすがり、信じました。
『髪は絶対にまた生えてくる。今は治療に取り組んでほしい。今であれば命が助かる。』
と言う私の言葉はもう彼女の耳には届きませんでした。その頃には彼女の姉妹も
『みっちゃんはお母さんが亡くなったから、あの病院をいたずらに貶めているんだ。』
と参戦してきました。彼女らの言葉の馬鹿さ加減に腹が立った私は
『私はそんな狭量な人間でない。一番良い方法と言うことで動いていただけだ。でも、そういう考えで私の動きをながめるならば今後もうかかわらない。』
と宣言し、かかわりを切りました。
それから数年、彼女は生きました。でも肺がんは出てきました。地元の病院で最終的に肺炎として亡くなったそうです。
彼女が亡くなってから、元の病院の紹介状が出てきました。初期肺がんの疑いと書かれているその文書の虚しさ…。
彼女は今龍神村の山の中に眠っています。
あの時、髪を失うことにあれほどにこだわった彼女をしかりつけた私だから、髪を失うことよりも
最も大事なことが人生にあることを自分の身をもって、医師として訴えていきたいと考えます。

鬘も用意しましたが、どうにも似合わず禿げ頭をさらし、
自身が乳癌患者であることを説明しながら
クリニックに来て下さる患者さんの診療を行っています。
いつかあの世に逝く時がきたら、人生と髪とについて彼女と談義を繰り返しましょうか♪
