さて白河天皇が即位された際には

異母弟たる実仁親王が皇太弟、その後の継承者として実仁親王からは同母弟にあたる輔仁親王が皇位継承者として後三条天皇により定められました。

しかしこの後三条天皇の遺言は白河天皇にとっては不満なものであったと言われています。

そこで1085年、実仁親王が疱瘡にて15歳で逝去した際に、白河天皇は息子の当時8歳の善仁親王を皇太子として立太子し、即日譲位してしまいます。

この方が堀川天皇となりますが、生来病弱にて29歳にて崩御され、続いて堀川天皇の息子たる宗仁親王が5歳で即位し、鳥羽天皇となります。

ですので、少しここでまとめると    白河天皇→堀川天皇(8歳で即位、白河天皇から見ると息子)→鳥羽天皇(5歳で即位、白河天皇から孫)   と言う流れになります。

この少し急いだ流れの中からは白河天皇が皇統を自身の直系親族にとどめようとした強い意志のようなものが感じられるように思います。

そして鳥羽天皇も幼くして母を亡くした関係で白河上皇のもとで養育されていたのです。  

法金剛院

  苑池に咲く蓮の花…

  白河上皇と祇園女御のもとで養育されていた璋子、まず白河上皇は当時関白であった忠実の息子忠通に嫁がせようとします。

しかし上皇の意向を理解するも、忠実は婚姻の日次の決定を延ばし、この婚姻に承服しがたいことを表明します。

 その理由は璋子の素行に問題があったためとされています。

最終的に法皇は璋子を鳥羽天皇に嫁がせることを決意します。しかしながら、璋子は既に法皇とも関係を持っていたのです。

法金剛院にある青女の滝

   日本最古の人工の滝とされる

  

1117年12月13日、璋子17歳、鳥羽天皇15歳の折に彼女が入内します。

璋子の出自からすると、立后は難しいにも関わらず白河法皇により1118年1月20日中宮に叙せられます。

そして1119年5月28日皇子顕仁親王を出産されます。この方が後に日本三大怨霊の一人とされる崇徳天皇です。

             (後のお二人は菅原道真公と平将門)

そしてこの方の実父は白河法皇であろうと言うことが世間から取りざたされています。

実際、鳥羽天皇もこの方の事を「叔父子」とお呼びになったと伝えられています。

年齢、古稀に近づきつつあった白河法皇にとって顕仁親王は特に愛しみの対象であり、1123年、21歳の鳥羽天皇に譲位を迫り5歳の顕仁親王を帝位につかせ崇徳天皇となります。