待賢門院璋子の19歳から29歳までに至るまでの約10年間、彼女にとって栄耀に満ちた最も幸運な時期でした。

しかし、それは白河法皇と言う勢力無比なバックグラウンドによりもたらされたものだったのです。

この時期白河法皇と鳥羽上皇との御仲(お二人は祖父と孫にあたります)も特に問題はありませんでした。

しかし、法皇も既に齢77歳、1129年7月6日突然発病し、激しい下痢の結果翌7月7日逝去されます。

待賢門院璋子にとっては白河法皇は父であり、恋人であり,師でもありました。

その逝去が彼女にもたらしたショックは大変なものがありました。

鳥羽上皇は今までは白河法皇の厳しい監視の目から自由になることはできませんでした。

しかし彼もまだ27歳の若い青年、当然のことに美しい女性に目が移るのは仕方のない事でした。

今までは白河法皇に憚り、遠慮していた貴族たちが、特に藤原氏が、縁故の娘達を鳥羽上皇のもとに入内させていきます。

待賢門院璋子にとって斜陽の気配が忍び寄ってくることとなります。

しかし白河法皇の存在があったとは言え、お二人の間には十年を超える年月があり、崇徳天皇を別としても4皇子2皇女がありました。

そこには年月を越えた慈しみの愛情があったのです。

白河法皇亡くなった後もお二人は6回にも上る熊野詣でをともに行っています。

  まず前関白太政大臣忠実の娘の勲子(いさこ)が鳥羽上皇の後宮に入内します。(1133年)

     藤原忠実は白河上皇より依頼のあった長男忠通と璋子の結婚を拒否したことにより10年間の蟄居期間を過ごしていました。

     しかし、白河法皇の死をうけて巻き返しのために勲子の入内を計らっていきます。

      この時、勲子は既に37歳であり寵愛を以て璋子の障害となることはありませんでした。

      しかし、彼女の父は前関白太政大臣、比較すれば璋子の出自よりもはるかに優るものでした。

      勲子は女御宣下を受けて入内、皇后に冊立され、名前を泰子に変更します。(1134年)

      鳥羽上皇の後宮にて絶対的な地位を占めていた璋子にとっての暗雲の始まりでした。

      続いて鳥羽上皇は藤原得子のもとにかよわれることとなります。(1134年)

       (この時代通い婚が一般的ですものね…でも天皇陛下、この頃はもう上皇、御所を抜け出して通っていたのでしょうか???

          源氏物語にも落窪物語にもその他にも詳しくこの時代の通い婚の様子は書かれていますね。)

これに対し、崇徳天皇は自分を慈しみ育ててくれた白河法皇への追慕、及びその白河法皇が大切にされていた母待賢門院璋子への愛情から

得子への親族、支持者に対し厳しい処罰を行われます。(1134年)

この状況に鳥羽上皇はなおさらに美福門院への御寵愛をなおさらに深める結果となっていきました。

そして崇徳天皇と鳥羽上皇の関係を損ねて行きます。

そしてこの時期、待賢門院璋子は自身の辛い状況からくる辛さを忘れるために法金剛院の設立、整備に力を注いでいきます。

そして朝廷内には待賢門院璋子を中心とする勢力と美福門院を中心とする勢力とがひそやかに争う状況となっていきます。

 そして1136年美福門院は鳥羽上皇との間の最初の子供として叡子内親王を、続いて1137年暲子内親王を出産してゆきます。

このうち叡子内親王は皇后泰子の養女となり、皇后も美福門院を擁護する側となってゆきます。

そしていよいよ1139年皇子躰仁親王、後の近衛天皇が誕生します。

近衛天皇の誕生を受けて鳥羽上皇は当時27歳の崇徳天皇に譲位を迫ります。

この際に美福門院の出自の低さのために親王位がふさわしくないために崇徳天皇の養子となることになっていましたが、崇徳天皇の認識とは異なり皇太弟としての即位になります。

近衛天皇は2歳5か月での即位でした。

養父であれば崇徳天皇の院政は可能でしたが、弟となると院政は不可能でした。

待賢門院の勢力の回復を妨げようとした美福門院側の策略であったとされています。

美福門院は皇子の立太子、即位を受けて女御として入内し、立后されてますます栄えてゆきます。

対し、待賢門院の落魄は明らかでした。

彼女はますます法金剛院の整備に力を尽くしてゆきますが、美福門院を目的とした呪詛の疑いが彼女にかけられます。

そして翌1142年、法金剛院にて落飾、3年後の1145年に死去します。

こちらが法金剛院所蔵の待賢門院璋子の肖像画です。

  落飾後で、憂い深いお顔に見えるのは彼女のこの頃の憂愁に満ちた人生を

 投影して眺めるからでしょうか。

 

 その後、1155年近衛天皇は17歳にして跡継ぎをなく死去します。

この時崇徳上皇は自身の第一皇子重仁親王を即位を希望していましたが、重仁親王も美福門院の養子となっていましたので即位は不可能な事ではありませんでした。

しかし、崇徳上皇の勢力の拡大を恐れる鳥羽上皇、美福門院の中でもう一人の養子守仁親王が即位するように計らっていくことが計画されていきます。

その中でまず守仁親王(後の二条天皇)の父親雅仁親王が中継ぎとして29歳で立太子なく即位することが決定され、後白河天皇となります。

  (ここが少し私的には理解できないのですが、雅仁親王は待賢門院璋子の実の息子なのですよね、だから崇徳上皇と父が違うのか、どうなのかは不明だけれど

    母親は同じ兄弟なのですよね)

これで、崇徳上皇が政治に返り咲く可能性は完全に閉ざされました。

 1156年、鳥羽上皇が死去されます。その際に崇徳上皇は死に目に駆けつけますが、対面を拒否されます。

そしてこの鳥羽上皇を死をきっかけとして様々の人の思惑が絡み戦端が開かれて行きます。(保元の乱)

崇徳上皇、彼女にとって第一子、と後白河上皇、彼女にとっての第四皇子との争いを見ずに済んだのは幸せな事だったかもしれません。

結果、崇徳上皇は勝利することができず、讃岐に流されます。

讃岐において崇徳上皇は経文を写本し、(これは通常の墨で書かれていたという説と彼の血で書かれていたという説がありますが)

戦によって亡くなった者たちを後世を弔うため、日本の安寧を願うために京都の寺に納めて欲しいと朝廷に願い、送ります。

対し、崇徳上皇の呪詛が込められているのではないかと後白河院は受け取りを拒否します。

これに怒った崇徳上皇は舌をかみ切り、爪髪をを伸ばし放題に伸ばし、最後に夜叉の様な姿になって亡くなったと伝えられています。

江戸時代に書かれた雨月物語においても崇徳天皇は怨霊して描かれ、歌人西行が讃岐の国に崇徳上皇を慰霊のために訪れる様子が描かれています。

長く江戸時代に至るまで崇徳上皇は怨霊として恐れられたと言う事でしょう。

待賢門院璋子の生涯も哀れでしたが、

最高位の天皇の位を占めながら讃岐の国流罪され恨みながら世を去った崇徳上皇もなおさらに時代に翻弄された無残とも言える人生でした。

   参考文献は角田文衛著 待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄    

白河法皇の好みで璋子に仕えた女房達は美しく、才あるものが集められました。

その中でも歌で特に有名なのは待賢門院堀川です。

~なかゝらむ心もしらす黒髪の 乱てけさは物をこそおもへ~法金剛院の中には有名な彼女の歌碑があります。