色々の思いを抱えて看護生活を送っていた私にある朝日新聞の記事が目に止まった。
それは日曜日版の中のある記事で、内容は国立がんセンターにて医療相談のコーナーが始まったとのことであった。遠方にてがんセンターに来ることができない患者のために資料と主治医からの紹介状を持参すれば相談に乗っていただけるとのことであった。現在のセカンドオピニオンに発展していく制度の先駆けのようなものであった。当時はまだ携帯電話は日常的なものではなく、自宅の固定電話にコードレスの電話機すらない時代であった。両親に電話の内容を悟られないように、東京に電話をするにはどこか自宅外の公衆電話を使うしか方法はなかった。
当時、自宅の後ろの筋違いに歩いて2分ぐらいの所にスーパーマーケットがあり、その店頭には公衆電話が設置されていた。私はその公衆電話のある場所に急ぎ、東京の国立がんセンターへと電話をかけた。が、話中でつながらない。何度もダイヤルを繰り返して漸くにつながった。新聞に載っていた『医療相談を受け付ける係の電話番号を告げ、そちらにつないでくださるよう。』にお願いしたが、話し中と告げられた。仕方なく、受話器を置き、またダイヤルを繰り返す。十回に近い試みのうちに漸くつながる。しかし答えはまた同じであった。『そのラインは現在話中でふさがっております。』国立がんセンターにつながることすら至難の業なのに受話器を置いてはまた同じ結果になってしまう。
私はとっさに『このままの状態で待つことは可能ですか?』と尋ねた。『可能ですが、現在すでに3人の方が待っておられます。時間はそれなりにかかると思われますが、いいですか。』との答え。『お願いします。』と答え、公衆電話で待ち続けることとなった。運が良かったのは財布に一万円札が一枚入っていたこと。すぐに千円のテレホンカードを買い、そのまま機械に放り込んだ。恐ろしいスピードでテレホンカードの残額は減っていく。電話が切れないように二枚目を買い、機械に放り込む。同じ状況で素早く残額は減っていく。この間に交換手が出て『お一人終わられました。あと二人です。』と教えてくれる。
そして三枚目。そろそろ四枚目を買わなければならないと考えていた時、『今からご希望の電話がつながります。』との答え。新聞記事を見たと伝え、その問題のコーナーに予約を入れたいと希望を伝える。とそのコーナーは2日後に予約の空白が有るが、それ以後の空白は一か月後になるとのこと。『日本全国にこの記事がまかれているとすれば、そうなるよね。』と心の中で妙に納得し、その切迫した日で予約をお願いしたい。』と伝える。
そして『さあ忙しいぞ。』と自分自身を奮い立たせる。新聞記事によるとこの短い時間に母の病状に対する資料と紹介状を用意しなければならない。そして新幹線の切符と宿泊先も。まず記事を切り抜き、病院に急ぎ『お願いしたいことが有って主治医に面会したい。』と申し出る。主治医には『先生がしてくださっていることに家族として不満があるわけではない。しかし何か病人のためにできることはないのか。これは私自身の心の区切りのために必要なので。東京の国立がんセンターに行きたい。ついては資料と診断書をお願いしたい。』と依頼した。主治医は『資料はすぐに用意します。でも紹介状は。君は聡明な人なので自分の口で伝えられるね。』と言い訳とも説得とも取れない言葉を口にして紹介状は書いてはくださらなかった。当時もちろん私はまだ医学部に進んでおらず、医療に対する知識は持ってはいなかった。例えば化学療法が行われたことはわかっていてもそこに使われた薬剤の名前まで当然のことに説明を受けてはいなかった。紹介状がなければ多くの情報は欠損してしまうだろう。しかし即座に紹介状を書いてほしいという理不尽な要求をしている事、母の最期をもしかすると託さなければならない病院と事を構えることは得策でないと判断が即座に働いた。のど元まで出かかっていた言葉を敢えて飲み込んで資料の手配に感謝して病院を離れた。これが不十分な資料として東京で用を果たせなかったとしても『それはそれで仕方がない。』と自分自身を慰めた。
『おかあちゃんの調子も最近落ち着いてきているみたいだし、私一泊泊りがけで東京に遊びに行ってきたいの。いいでしょう。』と私の不在を不安がる母を無理に説き伏せ、そのまま急いで和歌山から特急に乗り、新大阪で乗り継ぎ新幹線の自由席に飛び乗った。後年、一人でイギリスに行くなど、とんでもない破天荒な人生へと船出していくことになる私であるが、この頃まではほとんど和歌山を出ることもなく東京への一人旅は大変に不安なものであった。診療情報書は用意できていず、無駄に終わるかもしれない旅のことを思うと引き返そうかと迷う気持ちはとても強いものであった。東京までこの時私を連れて行ったのは『のちの私の人生に後悔を残したくない。』と言う思い一つであった。その夜は国立がんセンターからそれほど遠くないホテルに滞在し、次の朝フロントでタクシーを依頼しがんセンターに向かった。待合室から面談室に通され,私に対応してくださったのは当時内科部長の重責にあった方であった。
その方との面談でまず私は紹介状を持参せねばならないことを十分に理解していたが、その依頼に対しての地元の病院の対応、主治医の言葉、そしてその結果持参できなかったことに謝意を表明した。そしていよいよ話は始まった。私はまず地元の病院にて二年間または二か月間と説明されていることを伝え、そのどちらであるか教えてほしいと尋ねた。それに対する彼の答えは私の予想の遙か上をいくものであった。彼は私が持参した母のCTを説明しながら、病状をわかりやすく解説した。そして引き続いて述べたのは
『おかあさんは明日のない人だ。君がここにこうして座っている間も命は終わっているかもしれない。君は私との話が終わったら、東京で無駄に時間を過ごすことなく、すぐに和歌山に帰らなければならないよ。』
の言葉だった。
『先生のもとに何とかして連れてきますから先生の力におすがりして運命を変えることはできないですか。』
との私の質問にもはやその段階ではないとの答え。
『この状況で連れてくることはもはや意味がない。もう和歌山に置いておいてあげなさい。』
そしてそのまま秘書に
『和歌山のこの病院のこの先生に電話をつないで。この先生と僕も話をしておくから。』
と言葉をつながれた。その瞬間
『優しい先生でよかった。紹介状を持参できなかったけれども来てよかった。でもどうして初めからこの先生に出会うことができなかったのだろう。こうして一生懸命に努力すれば、叔母が不可能だと言った難しい扉も開くことができたのに。なぜあの時に私は叔母の言葉に屈してしまったのだろう。』
と後悔の念が湧き上がってきた。でももうすべてが遅すぎた。先生のやさしさ、博学にすがり自分が答えを欲しいと思っていた質問を次々とぶつける。
『丸山ワクチンはいかがですか。』
『君がお母さんのために何かをしているという気持ちの安定を得るためならば意味があると思う。でもそれ以上のものではない。』
『わかりました。先生のお言葉ではっきりと自分の気持ちを決めることができました。丸山ワクチンに縋って私の気持ちが軽くなることはないと思います。それだけのために無駄な金銭をつぎ込む余裕は私達家族にはありません。』
『母は彼女の父を通して自分がいつか癌にかかるだろう。そして自分が癌により命を落とすであろうことを恐れていました。ですから今のこの状況を私は癌のためだとは説明していません。今、母は治ったらあれもしよう、これもしようと口にしています。そのいくつかは今であればできると思います。母に今からぼんやりとがん告知をしてそうしたことを行っていった方がいいでしょうか。』
『君は最初からボタンを違った風にかけてしまった。人が持つ恐怖の中で一番強いのは死への恐怖だと思う。がん患者はみな体の苦痛と戦っている。今そのお母さんに死への恐怖と言う最大の精神的苦痛を負わせることは残酷なことだと僕は思う。君はお母さんから内緒ごとをしていると思わずに、お母さんの苦しみを肩代わりしているのだと考えなさい。それであれば君は最後まで頑張ることができると僕は思う。』
『これから本当に大変な時を君は経験すると思う。お母さんが息を引き取る時間によっていかなる手順を取るべきか自分自身でよく考えてシミュレーションしておきなさい。お母さんはもうそれが必要な時ですよ。』
『判断に迷うときには自分がお母さんであればこの状況でどうしたいか、を考えなさい。それを続けている限り君は判断に間違うことはないだろう。』その他にも多くの質問を行ったと思うが残念ながら私の記憶には残っていない。その会話の間に秘書の方から
『ご指名のドクターは本日病院内に居ないから電話に答えることはできないとのことです。』
との情報がもたらされた。その答えを聞きながら心の中を一瞬『本当に病院内にいないのかしら。単に居留守を使っただけではないか。』
との疑問がかすめた。
『しかしもうそれもどうでもいいこと。母の運命はもう決まっていること、その瞬間が相当に近い将来に来ることを知ってしまった以上、何をどうする必要もない。』
と心に思い定めた。最後に彼は小さな紙に自身の名前と電話番号を記し、
『本当に困った時にはこの電話番号を使い、私を呼び出しなさい。』 と手渡してくれた。
その小さな紙をぎゆっと強く握りしめ、深く、深く頭を下げてか細く、聞き取れないかもしれない『有り難うございました。』と述べて、彼と面談した部屋を出た。それ以上何かを言えば、涙が出そうだった。
その時にはまさか非常に近い将来父親のことでこの紙に書かれた電話番号と彼の名前を使うことになるなど思いもよらなかった。