11月23日は例年京都で紅葉狩りをするには一番良い日なので、京都とても混雑するだろうなと予想しつつ、

その混雑に参戦してきました。

で、まず一番目の訪問場所、石山寺。

 別に大河ドラマの影響と言うわけでなく、『一度行ってみたいな。』と軽く考えていただけの事。

『一度行ってみたいな。』程度の事であれば、何も好き好んで一番混雑するこの日を選ばなくてもよいであろうに、

やっぱり名所を訪問するとすれば一番美しい時を見たい、と言うとやっぱ桜か紅葉か…。

とはいっても室生寺五重塔、雪の日に行きたいと言う野望(?)は未だ捨ててはおりませんが。


当然とてつもない渋滞が予想される日なので公共交通機関を使用して…と考えて

自宅を6時半出発の河内長野駅6時55分発の難波行き急行に飛び込みました。

それなりに早い時間にも関わらず、車内結構混雑していて驚きました。

で、新今宮で環状線に乗り換え、大阪に至り、ここから京都線の新快速米原行きに乗り換え石山駅まで。

石山駅でJRから京阪の石山坂本線に乗り換え、

石山寺で降りたのだけれどここから800mも歩く羽目になるとは思いませんでした。

よくよく読めば石山寺の公式ホームぺージには石山寺駅より徒歩10分とは書かれていたのだけれど…。

いつもなにがしか読み損ないをやっている私ので、今回も同じかな…。

仕方がない、瀬田川沿い、自動車道の横の遊歩道をひたすらに石山寺で目指して歩きます。

主人はあっち、こっちきょろきょろ眺めているので、いつもの事に私が目を配っていないと迷子になってしまう。

    (勿論、迷子になるのは私がでなく、主人が、の意味です。)

京阪の石山寺駅に降りた時にこんなパネルがありました。

ある意味、頑張っているなと思っていたら

  後、寺内で飲料を売っている自動販売機まで

  紫式部の絵が描いてありました♪

至る所に紫式部が溢れている!!

さて漸くに着きました、石山寺。

こちらが東大門(重要文化財)鎌倉時代源頼朝の建立とされるも、

慶長期淀殿の寄進により大規模改修が行われた、と伝えられてます。

 また門両脇の金剛力士像は鎌倉時代運慶、湛慶の作と伝えられています。

もう人が多すぎて、他人の入らない写真は無理…

  主人の横にいずことも知れないカップルが写っております。

  右と左の金剛力士像、そして中央に石山寺の縁起を置きましたが、私的にはこの寺は何のために…????

と言う疑問が解決しませんでした。

歴史好きなので、歴史のバックグラウンドに満ちている場所が好きなのです。

石山寺は紫式部が源氏物語を書いた場所であることは知っていたし、

あの頃の女性にとって京都から近い好ましい外出の場所であったと言う事は簡単に想像がつきます。

『蜻蛉日記』では作者藤原道綱の母が夫たる藤原兼家との関係性に苛立って石山寺や長谷寺に遁走する様子が書かれています。

いつも兼家がのこのこと彼女を迎えに行って元鞘におさまるのだけれど…。

実際読んでいると『またか。』と言う感想で、

これを以てして彼女は何をかきたかったのだろう、と疑問に思ってしまって。

結局、兼家同意の上での宣伝の一環として書いたのだと言われると、その説もありかと思われてしまう。

その様に考えてくると『源氏物語』も同じようなラインの仕事だったのかな、と考えてしまう。

当時高価な紙が彼女の財力で大量に買い求めることはかなり無理があっただろうし、

夫たる宣孝は彼女との年齢差も大きく、彼女が唯一の妻ではなかったようだし、それに何より結婚後まもなく彼は病死している。

彼女の実家もそれほどに恵まれていなかった様に見えるし、そうなると…。

結局の所、結論は出ない!!!

くだくだ、つまらないことを書いていないで石山寺の風景を…

何でもちょこまかとやってみたい性格をしているのだけれど、

   中は結構狭くて手をつかないと歩けない…

二度と骨折はしたくないよね…と言う事でパス!!!!

そして、本堂点景…。

 

異なる場所から…

 

紫式部の供養塔、そして松尾芭蕉の句碑…。

 片や平安時代、片や江戸時代…。

紫式部の墓所は京都市北区にあるらしい。

この供養塔は鎌倉時代中期の作らしい。

むむっ、あえて鎌倉時代に平安時代に亡くなった人の供養塔をここに作った目的は???

松尾芭蕉については芭蕉庵と言うものが現存しているから、此処で句会などが開かれていたのかな??

右の写真の月見亭内には入ることはできないけれど、きっとあのステージから眺める月は見事だろうなと…。

でも、私的最も惹かれたのは、これ!!

 

ご存じの方も多いと思うので余計な情報になってしまうと思うけれど、私は弘文天皇(大友皇子)がこの地に葬られていたとは知りませんでした。

645年、当時の中大兄皇子と中臣鎌足が協力して蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変。その後天皇集権国家を作るために中大兄皇子と大海人皇子は協力して様々の国家体制を作り上げてゆきました。

大海人皇子が中大兄皇子(即位後天智天皇)の後を継承すると予想されていましたが、天智天皇高齢になると自身の息子である大友皇子の即位を望むように心変わりしていきます。

大海人皇子が天智天皇から皇位に対する希望を尋ねられた時、大海人皇子は自身の身の危険を察知して、出家して吉野に逃れます。

その時に天智天皇の娘であり大海人皇子の正妃である後の持統天皇も夫と行動を共にしました。

そして力を蓄えた大海人皇子と大友皇子との間でいよいよ戦端が開かれることとなったわけです。

戦いの色々は省略して、最終的に勝敗が決したのは瀬田橋の戦いでした。

この戦いに勝利し、大海人皇子が後に天武天皇となっていくわけで、大友皇子は自害します。

この時の大友皇子の正妃は十市皇女であり、彼女は大海人皇子と額田王との間に生まれた娘でした。

したがって彼女から見ると父と夫が戦ったわけです。そして母の額田王は既に天智天皇の愛人の一人となっていました。

十市皇女は30歳前後で亡くなりますが、その死も突然で急病説、自殺説色々にささやかれています。

彼女が亡くなった時に大海人皇子の息子の一人の高市皇子が哀切極まりない歌を詠んでいます。

この事から彼らの間に恋愛感情らしきものがあったのではないか、と想像されている向きもあります。

そしてこの高市皇子の息子が後に聖武天皇と藤原四兄弟により惨殺される長屋王となっていきます。

天智天皇陵は京都市の山科区にあり、天智天皇の大津京も大津市にあったとされるので大友皇子もこのあたりに埋葬されたのでしょうか。

でもこの後、天武天皇は再び都を飛鳥に戻します。大津京はわずかに5年の都でした。

石山寺はこれで終わりです♪