祖父の家はその頃の田舎家の常として風呂もトイレも母屋から離れた別棟にあった。風呂はまだ母屋に面していたが、トイレはそれよりも離れた場所で枯草や薪などを保管する真っ暗な場所の隣であった。夜になると祖父の家の辺りは漆黒の闇となり、特に薪置き場は恐怖であった。闇の中より、見知らぬ手が出、捕らえられるようなそんな恐怖心が湧いた。暗くなってからは私を含めて従姉妹の誰一人として一人でトイレに行くことはできず、就寝前に六人で行列をしてトイレに行くのが常であった。一人ずつ用を足し、その間用が終わった人間も同じように待つ。そして全員の用がすむとまた行列をして母屋に戻る、それが常であった。しかしながら不幸なことに夜半に目が覚めてしまうこともある。山の日暮れが早く、就寝が早いせいもあったと思う。目がさめると当然トイレに行きたくなる、それが最大の困りごとであった。目が覚め、布団の中でトイレに行きたいがどうしようかと考えていると、祖父母が寝ている部屋の天井を這う蛇の音が聞こえてくる様な気がする。それは祖父たちから言われていたことであった。家の守り神として蛇が居るから大きな蛇を見ても絶対にいじめないようにと。しかし生来蛇が嫌いな私はその説明にさらなる恐怖心を植え付けられた。布団から出て庭で大きな蛇と出くわしたらどうしよう、そう考えると、トイレに行くことはもう完全に不可能であった。私達子供達は客がいない時には通常一番眺めの良い部屋をあてがわれ、全員でその一室に寝ていた。その部屋の外には幅一mほどの広い濡れ縁があり、その濡れ縁が私達の活動の場であった。その濡れ縁から直接家の庭先に降りることができ、その庭先のはずれにトイレがあった。濡れ縁から庭へのつなぎとして幅1mほどのコンクリートの犬走りが打たれていた。夜半に目が覚めると、寝室の障子を開けて濡れ縁に出、庭に降りて犬走りの先、谷川に近いところに放尿するのが常であった。真実のトイレの方を見つめながら怪しいものが出てこないかどうか、万が一の時には逃げる方法を考えながら全く落ち着けない放尿であったけれど。用を足し終わると急いで布団に戻り、何事もなかったかの様に眠りにつくことができた。しかしいつも翌朝、祖父が『誰がこんなところにおしっこしたのか。』と叫んでいたが、六人もいる子供たちの誰が行ったか決定することはできないと、知らぬふりを決め込んだ。
しかしながら私が訪れたのはその地の気候を愛でることができる夏のみであった。冬はどうであっただろう。道は凍り、凍結し、時に雪が降っていた事だろう。しかしこの高野龍神スカイラインも当然冬季の走行は注意が必要で、かつて冬に閉鎖され、今も状況によってはタイヤチェーンが必要な道路となっている。祖父の家の台所に掛けられている木製手作りの歯ブラシ立てを見ると祖父と父の生母たる祖母との間に7人ないし8人の子供が居た様である。しかし私が物心着いた時、父の兄弟姉妹は父を含めて3人の男児のみであった。時折大人の話として、虫垂炎の処置の手遅れとして死亡した、あるいは男性達の祭りの喧嘩に巻き込まれて死亡した、中耳炎から頭に膿が回って死んだ等、等語られていた。村には医師が居ないに等しい状況であったから、最悪の事態には田辺市に連れて行かねばならなかった。しかしバスの便も日に三便、車はまだ一般的な所有物ではなく、代わりあってリヤカーを引きながら長い時間掛けて運んだという話を眉唾ものと疑った私は村での生活の実態を知らなかったということであろうか。村から田辺市に至る道は虎が峰と呼ばれる厳しい峠を越さなければならなかった。バスからでさえ峠の険しさ、高さに戦慄を感じる道をどのようにリヤカーを引きながら超えたのであろう。
私が龍神村を愛したのは夏の一時の滞在の快適さ故であっただろう。そこでの生活の厳しさを味わうことはなかった。私に見せてくれる龍神村の顔はあくまでも美しかった。きらきらと輝いて見えた。それは日の光を受けて輝く日高川だけではなく、村全体が、空気でさえ幼い私の目には輝いて見えた。しかし父にとっては違った感慨があったようである。尋常高等小学校を卒業すると、村の地主たる有力者の学費支弁の申し出を断り自身の手で自身の運命を切り開くため大阪、神戸に出た様である。継母より飴玉すら与えられず、村に食事のために十分な米はなく、水の多い粥が主食であったからいつも空腹であったことであろう。
私には食べ物にかかわって幾つか心傷む父の思い出がある。私の心に残る中華そばの思い出。貧しかった父は一杯の中華そばを私達のために注文した。そして自身のそばから私のために取り分けてくれた。あれほどにおいしかった中華そばを生涯今に至るも味わったことがない。今、当時に比べると経済的に余裕のできた私であるが、いくら中華そばを食べてもあの味には至らない。二つ目はカレーうどんに対する思い出である。私が中学生ぐらいの頃だったと思う。父の洗濯の外交先であるうどん店を私たちは訪ねていた。父は素うどんを注文し、私はカレーうどんを注文した。そしてなんということなく普通にうどんを食し、私たち二人はうどん屋を後にした。次の機会、どこかのうどん屋を尋ねた時、父はカレーうどんを注文した。それ以後、うどん屋で食事をする機会があればそのたびに必ずと言っていいほどに父はカレーうどんを注文した。あまりにカレーうどんばかりを注文するので母が父になぜカレーうどんを注文するのか、と尋ねたことがあった。すると父は『美智子の食べているカレーうどんが本当においしそうだったから。』と答えた。父は龍神村で育ったから他のうどんを知らない、のだろうと母は語った。父がカレーうどんを注文する間、きつねうどんから、卵とじうどん、肉うどん、鍋焼きうどん、私は毎回異なったものを注文し続けた。しかし、父の注文は変わることなくカレーうどんだった。貧しかった父が大阪に出て初めて知ったのが素うどんだったのか、それとも自身の財布の中身と相談した結果注文したのが素うどんだったのか。それ以外の注文を父は人に尋ねることはしなかったのであろう。最初に私がカレーうどんを注文した時、父が『おいしそうだな。父さんの素うどんと交換してくれないか。』と言えば私は父の頼みに従ったであろう。でも父はそれを言わなかった。子供の注文した食事を奪うことを是としなかったのか。あるいは母の言う通りカレーうどんを知らず、その知らないことを私に知られることが嫌だったのか。私が理解している父の性格からすると後者の方に分がありそうである。父は努力家ではあったが、プライドが高かった。そのプライドを傷つけられたと父が感じ機嫌を損じた時、その怒り様は激しいものであった。
しかしそれを母や私にぶつけてくることはなかった。布団をかぶりふて寝をして、何日も家族と食事を共にしないことが有った。不幸なことに父がプライドを傷つけられる機会は非常に多かった。母の兄弟姉妹は父の貧しさを馬鹿にしていた。母の両親はさすがにあからさまにそうした態度を見せることはなかったが、父には彼らが無言の圧迫をかけているように感じられていた事であろう。それが祖父死後の祖母に対する態度の変化として現れたものでああろう。
私の入学卒業の折には必ず父と母の間で喧嘩が勃発した。母方の祖父母から多大の金銭が祝いとして届けられ、父方からは全く祝いの様なものはなかった。残念ながら父方には母方と同じようなことをする資力はなかった。その状況に父はいら立ち、母に届けられた祝いを祖父母に返金するように求めるのが常であった。父のプライドは自分の実家から祝いが届かず、母方のみから届くという状況が許せなかったようであった。しかし、母は『私が返しても他の兄弟はもらうのだから。』と主張して絶対に返そうとはしなかった。母が父の意見に従わないことで更に父のプライドは傷つく。今から思えば、方法はあったはずである。母方より祝いが届いていることも父に隠すことは難しくなかったはずである。母は生涯こうした人の気持ちの揺らぎには若干理解が及ばない人の様に見えた。2,3日後には父の機嫌を取るために自分から近寄っていたが、その時が来る前に父に対する母の愚痴を散々に聞かさるのは私であった。
父が転落して極貧に陥った時の父方の対応に母は恨みを抱いていたのかもしれない。母の言葉によると10円のパンすら買えないような日が続いたという。御坊の両親は母と父の結婚に介入し、結果として母をとんでもない状況に陥らせたという自分たちの負い目もあり、無尽蔵と言えるぐらいに援助を行った。しかしながら祖父母に思うところはあったらしく、『五味さんの実家は自分の息子がこういう状況になっているのに何もしないのかい。』とポツリと言ったと。その言葉に母は龍神に出かけることとなった。『お金がないので、木材を運ぶトラックの横に乗せてもらって苦労しながらおじいちゃんの所にたどり着いたのよ。でもね、おじいちゃんは『故郷に錦を飾れ』って囲炉裏端を叩いて起こったのよ。自分の息子がけがでベッドに横になっているのに、どうしてそんなことができるのよ。』この話を生涯何度母は繰り返したことか。父の転落事故がなければ、何事もなく平穏に流れて行ったであろう。お互いが傷つけあうような状況は起こらなかったであろう。しかし貧ゆえに人の気持ちはささくれ立つ。そして些細なことでお互いを傷つけあう。傷つけられた心は心の奥底に長い澱となってとどまり、時に浮かび上がり本人も周りの人間も傷つけてしまう。
父なりに都会生活を、人生を楽しむことができたのは母との結婚までだったのかもしれない。母より7歳年上であった。戦時教育のために英語のみならずカタカナ言語に徹底的なアレルギー反応を示した母とは異なり、父は大阪などで外国映画も楽しんだようであった。『哀愁』『赤い靴』に感銘を受けたと生涯口にしていた。遠くを透かし見るような目でその素晴らしいストーリー、感動的な最後、女優の美しさについて何度も私に語っていた。そのことを思い出すたびに父が父なりに都会の生活を楽しんだことが思いやられて私はうれしく思う。そんな日々の中で自身のキャリアアップのために電気工事について高度の資格を取ろうと独学したのだと誇りを以て語っていた。勤務先の寮で夜間電気を使って勉強するために、そのことで先輩から叱責を受け、最終的に押し入れにこもり隠れて勉強したのだと語っていた。努力を積み上げてきた父からすると、私の勉強のあり方など熱のこもらないものに見え、飽きたらなかったことであろう。テレビを見ている私を口うるさく叱るようになっていった。しかしその一方で母が私に掃除の手伝いなどをさせようとすると『美智子にやらせるな。それは僕がやる。』と私に家事などをさせようとはしなかった。『女性がそうした家事だけでなく、仕事を持ち自活できる時代がきっとくる。能力があれば家事は人に託し、自分自身はもっと自由に生きることができる。そのためには能力を磨いておかなければ。』というのが父の口癖であった。


