母亡き後の父との日々を書こうとして、思いを巡らせると多くのことが起こっていたにも関わらず

父親と心を通わせることができず、会話もなく、父の気持ち、考えを理解できていなかった事に気が付きました。

父と母の間に存在した矛盾が解決されないままに、父と私の間に残されてしまったからではないかと今は思います。

しかし当時の私にはそうしたことを考える余裕もなく、対処するにもあまりにも若過ぎ未熟でした。

母の死が起こした混乱が続く中で、より大きく問題が拡大され、そして新たな問題も加わって私の前に迫ってきました。

電柱からの転落事故の後遺症に苦しんでいた父、自宅療養、入院生活を繰り返していた日々の断片が幼い頃の私の記憶に残っています。

記憶に残る自宅の父は寝間着で寝具の上に座りながら、

 私に時計から時刻を知る方法や色々の事を教えようとしていました。時折は本の読み聞かせをしてくれました。

多分私が5歳ぐらいの時の出来事だと思います。でもその時、母は傍にいませんでした。

母はこの時、どこにいたのでしょう。自動車学校に行っていたのかもしれません。

母は車の運転が世間に広がり始めた初期から将来この技量が生活に欠くべからざるものになると考え、

自身の身に着けようと考えていました。

勿論当時の私たちの生活にそうした費用を支弁することはかなわず、母は自身の実家に援助を依頼しました。

父がそのことについて相談を受けたかどうか、事後承諾であればまだよい方で、おそらく母は自身の気持ちだけで運んだと思われます。

そうした状況の中で、母の不在中に幼い私に文字を教えながら病む父は一体何を考えていたのでしょう。

あの頃、今とは異なり多くの人が見合いと言う周りの人々に提供される結婚相手と結婚していったことだろうと思います。

母を含めた7人の兄弟姉妹の中で母ともう一人の妹が両親が選定した相手と結婚していきました。

そしてその妹は結婚後すぐの出産の際に19歳で亡くなった、と伝えききます。

母は7人の中で最も強健でしたが、最も強く実家の影響を受ける立場でありました。

父と母の間に愛情はあったのだろうか、夫婦として戦友に近い感情はあったと思います。

母は思いの届かなかった恋人を思い続け、父は同郷の結婚を予定されていた相手、そして今は同じ地域の百貨店に働く幼馴染を訪い続けました。

それは家族として父、母、私の3人で百貨店に行く時であり、極めて短い時間であったから父にとって何ら疚しいものではなかった。

『あの人、お父ちゃんの昔の恋人なのよ。』と私に母は語りました。

戸惑ってなんと答えて良いかわからず、私は黙り込みます。

10歳にして母を亡くしていた父は生涯を通じて自身の心を休ませてくれる優しい女性を求めていたのではないか、と思います。

その観点から母を眺めると余りにも強すぎました。

そして母の背後に控えていた母の実家は彼らの結婚生活に財力を以て終生介入してきました。

母は父に従うと言うよりも、父を自身の野心あるいは実家のために動かすことが多く見受けられました。

それは父の転落事故を通じてなお更に強くなったことでしょう。

転落事故がもたらした貧窮のどん底から父と母が立ち上がるためには母実家から援助が必要な事でしたから。

幼かったがゆえに消えてしまった私の記憶の中に、海に小島が点々と散るように、いくつか思い出される場面があります。

その中の一つに私を特に戦慄させた記憶があります。

どこかの病院に父は入院していました。そして私はその場で『また、お父ちゃん入院するんだ。』

と考えています。すると母が素早く父の臥床しているベッド上の掛け布団を強くめくりあげ

『こんな事ばかりしていないで、ちゃんと働いて頂戴。』

と叫びました。

その言葉を聞きながら、折角入院したばかりで退院せよ、と迫られる父もかわいそうなら

生活のために働け、と迫ることができる母もすごいな、と私は茫然としました。

父と母とどちらが正しいのか分からない、それぞれの考え方のぶつかり合いがすさまじく私は立ち尽くしていた。

そして、この時私は母と同じことは私にはできないと思いました。

母は野心に満ちた強い人であったが、昭和8年の生まれ、西暦に直せば1933年。

6歳の時には満州事変が起こっています。日本が軍国主義へと大きく舵をとった事件でした。そして8歳の時に日本は太平洋戦争に突入。

『背中にはいつも妹を括りつけられて、学校ですることと言ったら竹竿で空飛ぶ飛行機を突き刺す訓練だったのよ。』

母は終生苦笑いを込めてその当時のことを語っていました。

才に優れた母でしたが、その才を使う術を学ぶ機会を持たなかった母でした。

カタカナ文字は苦手、歴史の事も何も知らない、生活の資を稼ぐ資格の何も持たない、それらは母の限界でした。

時代が異なって生まれていたら、力を蓄え、思いのままに生きることができたでしょうが

まだ専業主婦が一般的で女性が自立するなど夢の様な時代でした。

車の運転ができる事だけでも十分に世間的に驚かせることでした。

彼女がいかに苛立っても、父に働いてもらわなければ生活は成り立たなかったのです。

母が一生懸命に人造珠に糸を通す内職をしていた時のこともおぼろげに記憶に残っています。

後にその仕事に興味を持った私が手を出してみましたが、その得られる収入の小さい事に驚きました。

そうした経験が母をして父の寝具をはぎあげると言う行動に駆り立ててしまった、と思います。

その自身の経験が私を以て自立への道、そして自身未消化に終わった人生への夢を身代わりに果たすよう私の人生を設計するように駆り立てていったのでしょうか。

幼い私に本を読むことを教えて行った父、その心は自身が信じたものに裏切られた絶望があったと語ったことは私の記憶に残っています。

母との結婚の話が出ていた頃、母は祖父より父が当時として新しい思想に少し心を寄せすぎている、と忠告されたことがあったそうです。

その新しい思想は確かに父にとって魅力的なものであったことでしょう。

当時三人の主だった山林地主が大半の土地を所有すると伝えられる村の状況に対し、

すべての富をそこに働く者の間で公平に分配する、どうしようもない状況に村を捨てた父にとっては心惹かれるものであったでしょう。

その思想についての多くの書籍を父は所有していた、と母は語っていました。

その思想に深く傾倒し教えるがままに、現場にともに出て、ともに汗を流して

苦労を分かち合う。

既に自身の努力ゆえにある種の資格を有し、現場に出ることは不必要であったにもかかわらず。

そして現場おいて電信柱に上り、転落した。

考えを同じくする人々から助けが差し伸べられることを父は期待したが、もはや父が顧みられることはありませんでした。

父が購入した書籍は貧窮の中で生活の資とするために古書店にて処分された、と母は語ります。

『お前は一人で生きて行かなければならないから、物事の本質を見極めることができないと。だから本をしっかり読まなくてはならない。

本を読めば人生が分かる。』

『口先の心地よいことに言う人に騙されていけない。耳に心地よい事を言う人に騙されてはいけない。』

それが父の言葉でした。

母はたびたび本を購入することに費用を費やし過ぎていると、父を非難しましたが、父は本を購入する費用を惜しむことはありませんでした。

本を読ませる、と言う父の私への教育に母は費用の面から賛成していませんでした。

その考えの不一致が夫婦の話し合いで修正されることはなかったと思います。

父と母がそれぞれに、それぞれの考えに基づいて私の人生を形成していきました。

しかし、父が目指した本を読ませて学問的にしっかりとした基礎を作るという教育方針は

時代の流れと環境の故に彼自身を超えるようになってしまった娘に対しても屈折した劣等感を抱く結果となっていたように私には思えます。

その父の気持ちが『親を馬鹿にしている。』と言う言葉になって後に表れて行きます。