『私は娘の育て方を間違ってしまった。他人様のご飯を食べさせるべきだったのに。
お金の値打ちの分からないとんでもない娘を作ってしまった。』
私を見ると、母は生前語っていた。
本人を目の前にして育て方を間違ったと言う母もどうかと今となっては思うが、
素直に聞いていた私も母に対し完全に思考方法を真似る様に教育されていたのか、と疑問に思う。
しかし、母の言葉の底には私に対しての強い愛情と信頼があった。
その思いがあったから、母の言葉をそのままに受容し、母の期待に応えるために自身をもっと鍛えなくては、と思えたのであろう。
しかし、私の努力は母が望んだ方とは異なっていたのではないか、と思う。
自宅の傍の確固とした建物に移ることが出来た頃、私の仕事も少しづつ軌道に乗り始めた。
教室としての環境も良くなり、到達度の十分でない生徒の居残り勉強をさせるための空間もできた。
まず何よりも、プレハブ住宅の信頼感の無い建物ではなく安定感のある確固とした建築の建物、
その建物の前には両親の家が控えている。父兄に与える信頼感は変わって来た。
徐々に手製の教材も完成度を高めていき、子供たちにも評判の良いものとなっていった。
塾用の購入教材についてはその類のものを専門に扱っている書店とのつながりもできてきた。
春の早い時期に教材展示会に招かれる様になり、サンプルとして相当量の教材を無料で分けて頂く事もできるようになってきた。
それを基として、手製の教材をますます洗練されたものに作り替えることができるようになった。
努力が実を結び、生徒の数も少しづつ増えて将来のために運営の方向性を考える時となっていた。
母は私に尋ねた。
『商売って言うのは小さくやるか、大きくやるか、どっちかなのよ。中途半端はダメなのよ。』
大規模なビジネスに夢もあったけれど、私は自身の性格を打たれ弱いと感じていた。
父兄や雇用人の対人関係のストレスに堪えらない、と考えていた。
開業時には胃を痛めて、極端に体重を落としていた。
母は言った。
『人を雇うって言う事は苦を雇う事なのよ。』
母達もクリーニング業を自身の手で始めた時、アイロンがけのための熟練した職人の方を雇っていた。
が、すぐに母自身がアイロンがけをするようになって行った。
私は自身だけでこじんまりとした形態で行っていく方向を選ぶこととした。
思えば両親も同じ方向性でクリーニング店を経営していた。
比較的裕福な顧客を選び、高額で上質な品物を手作業でアイロンがけをすることで他店と比較して高額な料金を得ていた。
加えて、母は裁縫仕事の巧みな人だったからそうしたことも顧客へのサービスとし、上質の顧客の高額な商品の洗濯を請け負っていた。
両親と全く同じ方向性と言うわけではなかったが、類似の形態の経営法を私も踏襲した。
購入した建物に看板を出さず、新聞広告等も全く使用せず、唯塾の来ている父兄からの紹介制を入塾の条件とした。
入塾のためのテストなどは行わず、紹介さえあれば成績に注文を付けずに可能な限りすべてを生徒として受け入れた。
特別な私立中学とか私立高校の受験を目的とする塾ではなく、公立高校の受験を目的とし、日々の授業を問題なく理解できる事を目的として
基本的な地域の教科書を徹底的に教え込んだ。
英語は毎回1ページずつの指導であったが、次回にはその1ページを完璧に暗唱し書けることまで要求した。
90分間の授業はまずそのテストから始まった。
覚えていなかった時、単語のつづりが正しくない時、その場でその日の居残り勉強が確定する決まりであった。
授業が始まる前に建物の外壁の塀にもたれて教科書を見ながら必死に暗唱している子供たちの姿は地域の人の目を引く光景であった。
90分の授業が終了後、建物のどこかに場所を確保して一生懸命覚え直して次の授業を行っている私の空き時間を見付けて暗唱する、
駄目であればまたやり直し、それを繰り返し、本来であれば6時に帰れる子供が8時半になっても帰れないことが頻繁に起きた。
それでも父兄からの評判は良かった。
努力している子供たちに私は優しかったが、不正な事をしたり、他の子どもとおしゃべりをして邪魔をしている子供たちには厳しかった。
その子の教材は塾の窓から私の手で空に舞った。
『今月分の今日までの授業料はこれだけ、残りは返すから明日から来ない様に。』
と預かっている授業料を返却して、子供に涙を流させることも珍しい事でなかった。
『まじめな子には力を貸すけれど、そうでない子には私の時間は割かないから。』
が、私の口癖であった。
そして、その点にはついては、母も私の路線を応援した。
『あの子は私達が養っているので、生活のための仕事ではありませんの。』
今から思うと思いあがりが恥ずかしく、母娘して穴があれば入りたい気持である。
多くの類似の教材を自身の尺度で点検して採用する教材を決定するようになると、
その選定も信頼感を勝ち取る様になった。
開業時には私の英語の指導に信頼を置かなかった父兄がその生徒の弟、妹の際には英語も私に依頼するようになった。
あるいは英語の教材は私が選定したものを自宅学習用に購入したいと依頼するようになった。
『やった。』と思った。その感覚を味わうことがたまらなく快感だった。
この頃触るものが少しづつお金に変わっていった、それを意図していないにも関わらず。
生徒の数が増えて彼らのためのテキスト購入がまとまった数になる様になってくると
割引してもらえるようになった。
一冊、一冊はわずかな金額であったが、ちりも積もれば、と言うわけで見過ごしにはできない金額が手元に残る様になっていった。
春休みには生徒のために観光バスをチャーターして近隣の遊園地に親睦のための外出を企画することが恒例行事になっていた。
本来の業務ではない事なので、そのことで利を得ようとする意図はなかったにも関わらず
終わって収支を計算してみると、それなりの金額が手元に残る結果となった。
それもまた母の手によって貯金に回されてしまったが。
25、26歳にしてほぼ毎日の様に銀行の外交が尋ねて来ることになり、
自身が銀行に行けば、支店長によって応接室に通され近隣の喫茶店からケーキとコーヒーが用意された。
世間がちやほやする中で、自身の言葉遣いも、振る舞いもやや傲岸不遜なものへと変わっていった。
手にする収入に感謝は薄く、自身の力だと思いあがっていた。
指導法も教材も確立し、仕事はルーチンのものと変わり、私は退屈するようになって行った。
『何かいいことはないかしら。』がこの頃の私の口癖であった。


