『医学部に行きたい。』

 自分の口から出た思いがけない言葉に驚きつつも、それはそれほどに唐突ではなかった。

思い返せば母生存中から学習塾の経営に充たされないものを感じていた。

一人娘として大学卒業後は両親のもとに戻るのが私達家族の既定路線であった。

しかし地元では私が望むような研究職は得られなかった。

病院薬剤師として働くのは私が望んだ就職先ではなかった。

『空いた土地にプレハブを建ててやるからそこで塾でも開き、自分自身の小遣いでも稼いだらどうだ。』

両親の考えた事であった。そんないきさつで始まった学習塾であった。

最初は両親の知り合いなどを通してわずかの生徒を集めるのがやっとであった。

人に教えることが好きであった。

中学生の頃から近所の同級生に試験前に数学などを教えていた。

金沢大学の薬学部で学習していた時には休みが始まるとすぐに自宅に帰り家庭教師としてのアルバイトを開始した。

家庭教師で大学の授業に必要な書籍の購入費を稼いだ。

母は私に贅沢な生活をすることを許さなかった。

『大学は義務教育ではないのよ。親の責任ではないの。大学に行きたいなら行くだけの責任を果たさなくてはね。

親が苦労して得たお金を使って大学に行けることを感謝し、自分の将来を立派にすることを考えなさい。』

それは母が常に口にしていた事であった。

大学に行きたいのならば、それだけの努力をと母は求めて来たのであった。

授業料を別として、月に2万円の仕送り。それは完全な兵糧攻めであった。

何もぜいたく品を買う余裕はなく、学生寮での生活以外の選択肢はなかった。

その不足の資金を補うために、休みはほとんど家庭教師のバイトでつぶれた。

時折、『こうしてバイトばかり走り回っているのにどうして私は和歌山に帰って来るのだろう。』と自身に尋ねる事もあった。

しかし、一度関わると次の休みの時にもお願いするわね、と言ってもらえるのが嬉しかった。

その期待に応えるために休みが来ると、一日も無駄にせず和歌山への帰省を急いだ。

経験を重ねて私は教えると言う事に強い自信を持つに至った。

学習塾はそれとは環境が違った。

家庭教師であれば一人に注目していればよい、でも塾となれば多数の生徒に目を配らなければならない。

家庭教師であれば、生徒の所有しているテキストに準拠して教えればよい。

しかし学習塾となればテキスト、問題集、等々教材をこちらで用意しなければならない。

そして父兄対策。

最初の生徒は知人が多く、成績が不本意であればこちらに直接注文がぶつけられた。

自信を持って始めた事業だったが、

かなり自信を失くし神経的に疲弊してしまい胃が破綻、御粥生活に突入。

開始から3カ月で10㎏体重を減少させてしまった。

最初は教科書ですらどのようにして手に入れればよいか分からなかった。

書店の店頭に並ばない学習塾専用の教材があることも知らなかった。

何もかもが分からない尽くしでであった。

あまり遠くないところに存在している英語の学習塾があった。

私は英語と数学をセットにして指導していたが、その英語塾に行きつつも数学の指導だけを受けたいからと

数学だけを受講することを依頼してくる父兄があった。

口惜しかった。しかし彼の指導のもととなっているものを生徒を通して情報として得られないかと考え

父兄の希望のままにそうした生徒を受け入れた。

自身の英語の発音を矯正するためにラジオの講座を聞き、英語の発音をまねた。

カセットテープもいくつも購入した。

自身の指導者としての力を伸ばす一方で、一人一人の生徒の習熟度、理解度を私が的確に把握する方法、

そして目標レベルまで到達できない生徒をどうして伸ばすかを考えた。

自身で教材を作り、自身でテストを作り、自身でテストの採点を行った。

2年間は両親の所有する空き地のプレハブであったが、自宅の前の空き地が建売住宅として売りに出された時

それを手に入れることができた。

母が祖母から相続した資金を借り自分自身の2年間のわずかの貯蓄をつぎ込み、残りの不足分は銀行から借り入れをした。

24歳にして始めて不動産の購入をした。

建売であるが基礎ができた段階で購入をしたので、内装を相当に変更することができたことが幸運であった。

一階にあった6畳の二間をぶち抜きにし、教室として使うこととした。

台所の6畳はほとんど教室に使うコピー機などを置き、備品室とした。

押し入れは棚を入れ、書庫として使用できるように改造した。

それ以外は使わない浴室も二階の和室もそのままに残した。

その建物を教室として手を入れることができて、私の事業は急速に大きくなり始めた。