ひかりごけ事件についてまず書きたいと思います。
1943年12月日本陸軍の徴用船
(徴用;戦時などの非常時に国家が国民などを動員して一定の仕事に就かせること、もしくは必要な物品などを国民から接収すること)
第五清進丸が7名の乗組員を乗せ根室港から小樽市に向かう途中、
知床沖で大シケに遇い、座礁。
船員7名は岩肌の暗礁に漂着した船から退避した。
徴用船の船長は(当時29歳)は他の船員とはぐれ、一軒の番屋にたどり着き、
(番屋;漁民が、漁場近くの海岸線に作る作業場兼宿泊施設のこと)
後にもう一人の乗組員、最も若年の者(当時18歳)も同じ番屋にたどり着く。
二人で共にもう一軒の番屋に移動し、一か月以上にわたりそこで生活をするが、
極寒の中、体力を消耗し食料もなく18歳の船員は死亡し、
船長はその遺体を口にし、生き延びたという事件。
後に彼は死体遺棄、死体損壊の罪で逮捕され、懲役1年の判決を受け、刑に服しています。
武田泰淳がこの事件を小説として表し、
とここまで書きながら、
『やっぱ小説に触れる以上は諸説内容を確認する必要があるよね。』
といつものごとく変なこだわりが現れて、結局昔読んだ本を再度注文することとなり、
本日到着しました。
この本も昔は所有していたのですが、
両親が買ってくれた6000冊に上る本はイギリスに行っている間に託した不動産業者が世代交代をし、
日本に帰ってきた時にはすべて失われていました。
京大再受験をする際、イギリスに渡る時、今までの人生をやり直して
本当に自分が欲しいものを手にしようと人生をやり直す努力する時には
自分がそれまで獲得したものを失う事を覚悟しなければならないと当時思いきっていました。
10のものを失っても、なおかつその一つを手に入れたいと思うか、
自分が人生を賭けようとしているものがそれほどの犠牲を払うに値するものなのか
自身に尋ねてみました、やっぱり後悔したくないと言う気持ちが強かったです。
そして結果……。
10個も失わなかったけれど、6000冊の本はすべて失われました…。
6000冊すべての本は覚えていないけれど、それによって育まれた人格は私の中に残っている…、と思いたい。
まあ、とんでもない人格かもしれないけれど…。
と言うわけで書籍を確認してみると
小説の中では船長が18歳の船員を殺害したことになっている、
事実はそうではなかった、武田泰淳の取材不足とまで書かれている点です。
複数の場所でそのことは指摘されています。
思わせぶりに描写して、その点を逃げようとしたのか
船長が彼を殺したとしつつも、そのことは詳らかに書かれていません。
船長しか現場にはいなかったわけで、発見された時には彼は人骨のみになっていた訳で
どこまでが本当なのかは神のみぞ知る、という状況であることも確かです。
小説を読んでみて感じたことは武田泰淳が小説で言いたかった事は私の理解を超えている、と言う事です。
人肉食は勿論素材として扱われているのだけれど、
それが彼の書きたかった本質ではない、と感じました。
あくまで、事件は題材。
彼が書きたかったのは『虚』と『実』かな?と私なりに勝手に理解。
『実』の上に『虚』を重ねて結果得られるものは『虚を超えた更に上級の実』かな?と言うのが私の理解…。
で、感想は『私には理解できない!!!』再び書いているけれど。
読んでくださっている方には関係ない話だけれど、
いつも自問自答していること。
『私って理系人間なのかな?文系人間なのかな?』
にも通じるかな?
状況の遊び、言葉の遊び、究極の美学には究極ついていけない人間。
やはり根底は論理的思考が必要なのです。
この小説が当時大層讃えられた理由は私的には分からずじまいです。
船長の人格も小説の上で最初、ひかりごけの生えている洞窟ではすごく化け物みたく描かれているのに
裁判シーンではものすごく知的な悟りに達した人物に描かれているのです。
この辺のギャップも理解不能、理由は私の感性が鈍いからかな…。
でこのあたりから小説を少し離れて…。
実際の事件が『ひかりごけ事件』と名付けられたのはこの小説のインパクトが強かったためではないかと言われています。
でも読んでみてわかることはこの小説はこの事件を紹介するために書かれたものではないのです。
そして場所によっては武田泰淳が正確に取材をしなかったことを非難されて掲載されているわけですが、
彼にしては、この事件について知らしめるために書く小説ではなかったので情報収集は必要ではなかった、
と考えたのではないか、とも思われます。
しかし残念ながら
小説で船長が若い船員を殺したように描写したことから、
船長の後の人生がかなりつらいものになってしまったらしいです。
ここで私の間違いをお詫びしなければならないのですが。
カニバリズムと言う言葉に対する私の誤解なのですが、こうした非常時の人肉食に使われる言葉ではない、と言う事です。
文化人類学的、社会学的観点からの人肉食に対しカニバリズムと言う言葉を使うのが正しい使い方だと言う事です。
その例としては…
まず、その者の肉を食することにより、その人間の有していた特別な能力、力が得られるという考え方に基づくものです。
加えて親族や知人の肉を食することにより、魂や肉を分割して受け継ぐことができると言う考え方もあります。
あるいは死者の肉が薬剤としての役割も果たすと考えられていました。
民俗学者として有名な柳田邦夫の『遠野物語』にもカニバリズム関連の話がいくつか収録されています。
と言うぐらいでカニバリズムについてはこのぐらいで収めて、非常時の人肉食について次章で触れて行きたいと思います。


