一番の懸念であり、難事と思われた父のがんセンターへの転院が済み、次の仕事は母のための仏壇の購入、及び墓の建立であった。
ほっとする間もなく、父が東京で検査を受けている間に私は仏壇を購入すること、墓を建立する仕事にとりかかろうと計画した。
父が傍にいては、私の思うがままに事を運ぶことが困難になるであろうから、と浅はかな私の考えであった。
母の葬儀には母方の菩提寺からご僧侶の方々が来てくださり、そちらに墓地を分けて頂くことに
話はまとまっていたから、父方の臨済宗から母方の浄土宗に宗旨変えとなることはもう既定路線であった。
となれば祖母の仏壇と同じ金仏壇となるはずであろうと私は考えた。
市内の仏壇店を自分なりに巡ってみたが、気に入るものは見つからなかった。
『仏壇は大きいものを買うべきではないのよ。』と教えてくれる人もいた。
こんな時は母に相談してすべての事を共に行って来たのに、その相談する人はもはやいなかった。
一人で物事を行うようになってそれまでの自信の鼻が挫かれることに遭遇することがどれほどに多かったことか。
人よりも少し多い収入を手にし、その所有している資産の力でわがままにふるまって来た自分が
いざ一人で物事を行うようになって、いかに世間を動かすことができないか、
かけてくれる言葉も親切なのか、それとも私の無知を笑っている言葉なのか
全く見極めができなかった。
優しい言葉をかけてくれる人に縋って、縋りすぎて嫌われる。
嫌われていると思ってそれとなく距離を置けば、また近寄って来る。
そして、近寄れば嫌われる、今まで幾重にも母に守られていたことを自覚するけれども
もはや永久に頼ることはできない、自分自身で自分の道を切り開いていく他にない。
この頃から大学に再入学することを真剣に考え始めた。
自身の性格が世間に適合できないのではないか、と考え始めていた。
どれほどに一生懸命に尽くそうと誠意を尽くして感謝を伝えてもあっさりと裏切られる、そんな日々の繰り返しの中に疲れ果てていた。
一生研究か、学究の徒として世間から隔絶して人生を送るほうが自分自身に向いているのではないかとひそかに考え始めていた。
自身は思い悩みながらも、母の死後の雑事で片付けて行かなければならない事はたくさんあった。
例えば香典返しの様に。そこにも親類は口を出してきた。
『〇〇は生活が苦しいながらも美愛ちゃんの事を思い、香典を過分に捧げていたので、それを考えて香典返しも世間の水準よりも多めにしてほしい。』
とか、
『△△は私の勤め先なので、よろしく頼むわね。』
など、など。
そうした瑣末な事にとらわれている方が母の死が悲しく感じられない、と私をいたわってくれるのか。
父は病気で倒れ、自身の事しか考えられない状況で、そうした雑事を一人で片付けていかなければならなかった。
夜もほとんど眠れず、眠れば母のひそやかになく声が聞こえる気がした。
食欲はほとんどなく、食べようと言う気も起きなかった。
人が
『食べれている。』
と尋ねてくれる言葉に対しても
『心配を掛けてはいけないから食べている、と答えなければ。』
と言う思いと
『でも心配をしてくれている人をだますような事をしてはいけないかな。
でもこの場合は嘘も方便だよね。』
と微妙に考えているうちに、わずかな間合いで返事が遅れていく。そのわずかな躊躇が尋ねる人に口からは言えなかった答えを与えていく。
『やっぱ、食べれていないんだ。』
逆の立場だったら、私にだって簡単に引き出せた答えだった。
そんな日々の繰り返しでもともと不整脈がひどかった心臓は徐々に悲鳴を上げ始めた。
自身の健康状態まで不安を感じ、
『この体で大学受験など無理か。やっぱり今の仕事を続ける方が賢い選択か。』
とも惑う日々が続く。一応不動産販売業者に声はかけ始めた。
もともと学習塾を経営していた地域は既に子供が減少し始めていたし、
母の看護のための休塾が私の経営に対しての信頼感を損ねてしまったことも理解していた。
新規に新しい場所を求めて、従来の仕事を続けるのが正しいのか、迷う心に答えはなかなかに見つからなかった。
そして母の葬儀を取り仕切って下さった葬儀社の番頭の方が仏壇の購入に力を貸そうと、家に出入りするようになって行った。
私の周りの人は彼の意図に注意するようにと私に警戒を促してきた。
忠告を与えてくれる人の心の中を慮り、
『彼らの言う事も当然だよね。』
と理解しつつも誰一人力を借りることのできない状況をそれでも乗り切っていくためには
警戒しながらも彼の力を借りるしかないと私は思い始めていた。
その中で、気分転換に金沢に出かけようと考えた。
気分転換と自分自身の気持ちを見つめるためにどこかに出かける必要があると感じていた。
自身の学習塾は母親の最期の看護のために休眠状態であったし、この時期にあまり私が介入することはなかった。
加えて、何度かの閉塾騒ぎのために生徒も多くを失っていた。今さらに休んだところで迷惑をかけるとも思えなかった。
雷鳥あるいはサンダーバード。この頃どちらの名前が使われていたか、記憶には残っていないが大阪から特急に飛び乗り一泊二日の旅に出かけた。
卒業してからの何度目かの金沢訪問だった。
しかし、いつもの訪問とは異なり、にぎやかな観光地を避けて前田家の野田山墓地を訪れたり、寺町の寺院群の中でも異色な仏像を所持している寺院など
訪れた。
野田山墓地には歴代前田家の藩主の墓地があるが、
それ以外の土に帰ろうとしている古い墓標を眺め、人の世の転変のはかなさ、無情さをしみじみと味わいながら、
今のこの悲しみもいつか時の流れの中に飲み込まれていく事があるのだろうか、あきらめの境地に至ることで何とか自身の悲しみから立ち直ることができないのだろうか。
なんと人の世は悲しみで満ちているのだろう、と考えながら人通りのほとんどない墓地の中を一人歩いていた。
体重もかなり失い、歩くのもややおぼつかなくなってふらふらと歩いているのだから、
今から考えると、かなり危なく見えていただろうと、おかしくもある。
しかしその時には周りにどう見えているか、などと考える余裕はもとよりなかった。
大学の研究室に行っても卒業から既に10年以上が経過し、知った顔はほとんどなく、
助教授だった方が教授になられ、その方のみが知己であった。
そんな状況に突然ふらふらになった昔の卒業生が尋ねて来られても本当に迷惑だったことだと思う。
でも教授の方に
『卒業して10数年、この間に幸い仕事もうまくいって、経済的に困る状況ではなかった。
その上に母の介護にも全力で取り組むことができた。しかし自分の十年が母の看護のための資本を蓄えるためのものであったとしたら
余りにもむなしい。』
と訴えた。
それに対し彼は
『君は介護をお母さんのために行ったと考えているが、それはまちがっているよ。
君は自分のために看護を行ったのだよ。』
と私を諭した。その時には
『彼は何を道理に合わない事をいっているのかしら。』
と言う気持ちのみであったが、彼の言おうとしたことが本当に理解できたのははるかに後の事であった。
金沢から帰って来た私に友人は
『結婚しない。お見合いはどう。』
と問い合わせて来た。
心配してくれる友人の言葉を有難く思いながらも、自身は
『今の私に結婚相手の人間性を見極める力はない。今、結婚するのは愚策だ。』
と考えていた。
しかし次の瞬間、私は自身の口から飛び出してきた言葉に驚いた。
『医学部に行こうと思っている。』


