さて、緊急時、非常時に起きた人肉食についてですが、
歴史を振り返れば数多く、その記録は日本のみならず世界中で見ることができます。
飢饉、戦争、遭難などがその背景にあり、やむをえない状況であったと考えられる事例が
多く見受けられます。
飢饉の例としては旧石器時代から存在したのではないか、と考えられ
貝塚からばらばらとなった人骨が発掘されている例もあります。
それよりも歴史の新しいところでは江戸時代の寛永(1642-1643)、享保(1732)、天明(1782-1787)、天保(1833-1839)などに大飢饉が起こり
天明の大飢饉の際には東北の惨状痛ましく、人肉食も起きたと伝えられています。
この期間に日本の人口はほぼ100万人減少したのではないかの説もあります。
次に遭難に伴って起きたものも多くの記録があります。
- メデューズ号遭難事件(1816) フランス海軍のフリゲート艦がアフリカ、モーリタニアの沖にて座礁
- ジョン・フランクリン探検隊遭難事件(1845) イギリス海軍将校ジョン・フランクリンがカナダ北極圏の北西航路探検中に行方不明となる
- ドナー隊遭難事故(1846) アメリカ開拓民のグループが東部からカリフォルニアを目指して遭難
等等…
これらを際限なく列挙することも、意味ない様に感じられるので
特に歴史の新しいものを一つ上げると…。
1972年ウルグアイ空軍機571便遭難事故です。
ウルグアイの首都にあるステラ・マリス学園のラグビーチームの選手及び家族、知人一行40人を載せたウルグアイ空軍機は
チリ、サンティアゴの試合に向かいました。しかし天候不良と視界不良のために飛行機はチリとアルゼンチンの国境のアンデス山脈に衝突します。
この時点で死亡12人、行方不明5人、生存28名と言う状況でした。
その後飛行機は発見されず、捜索は打ち切られ、生存者は雪崩にも襲われ、
2名の状況の良い生存者が助けを求めるために山を降り、10日後人家に至り、墜落から72日後に救出されたという事件です。
72日間、彼らは亡くなられた方の肉を食して生き延びました。
しかしそれだけではなく、操縦室のサンバイダーを加工してサングラスを作ったり、
医学生が骨折者に対し飛行機の支柱を利用して添木を作ったり、
無線機の修理をしたりと究極の状況下で人智を尽くし、生存に協力していく姿が描かれています。
最終的に生存者は16名でした。
この事件についていくつかの書籍が書かれ、『アンデスの聖餐』(1973年)、『生存者』(1974年)、『アンデスの奇蹟』(2006年)
(私見ですが、’きせき’に奇跡が使われず、奇蹟の文字が使われたことに翻訳者の思いがあるのかな?と感じました。)
映画としてはアンデス地獄の彷徨(1976年)、生きてこそ(1993年)、雪山の絆(2023年)などがあります。
でも日本では手に入らないみたい、残念ながら…。
長くなっていますが最後に戦争です。
光前寺のひかりごけのブログを読んでくださった友人が、
御祖父さまからお聞きになられたと言う話を教えて下さいました。
『ニューギニア戦で、人体食があったのだよ。』
と。
最後にこの話を語って長かったトピックを終わりたいと思います。
彼女が御祖父様から伝え聞いたとして教えてくれた言葉は
『ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア』
でした。
戦地いずれの場所も補給路が破綻していった日本軍兵士は取り残された状況となり、現地で食料を調達せざるを得なかったでしょうが、
結果、飢餓状態に悩まされたことは容易に想像がつきます。
ジャングルの密林地帯であったニューギニアはその度合いがひどく、それが上記の言葉に表現されているのだと推測します。
病み傷んだ重症の戦友より
『自分が死んだら自分の身を食べてどうか生き延びて日本に帰ってくれ。』
と頼まれた言う言葉には、頼む側も頼まれる側も極限状態で、今の私にはその心持ちは想像すらできません。
ニューギニア戦にはおよそ20万人の日本人兵士が投入され、生きて帰ることができたのは2万人と伝えられています。
今も遺骨はニューギニアの密林の中に眠っているのでしょうか。
そうした悲劇を伝える日本人も多くはこの世を去りました。
日本の平和がこの後も続くことを祈りながら、そして日本の今の繁栄の礎となって下さった方々のご冥福を祈りながら
人肉食のトピックを締めくくりたいと思います。
(今回のトピックにあたり、Wikipediaを参考にしました)


