さて、私が高遠城址を訪問したいと長く思っていた理由ですが…。

先に書いた井上靖の小説の事もあるのですが、それ以前に武田信玄の娘松姫の生涯について小説を読んだことがあったのです。

彼女の生涯について要約して書いて行きます。


武田信玄の第四女と言われている松姫ですが、

1567年、武田信玄の戦略上の必要性から彼女7歳の時に織田信長の嫡男織田信忠と婚約します。

その後,武田家で成長するも松姫の扱いは織田家よりの預かり人として処せられていた、と伝えられています。

 婚約から約5年後、武田信玄が京を目指して西上を開始すると、徳川家康との戦端が開かれ、三方ヶ原の戦いが起こります。

徳川家との同盟関係にあった織田家から家康に向けて援軍が送られ、この時点で彼女は婚約解消となります。

三方ヶ原の戦いは家康の敗退に終わり、信玄は三河に攻め込むも1573年遠征の途上にて死去。

信玄を失った武田軍は甲斐に帰ることとなります。

信玄亡き後の家督は四男勝頼が継ぎます。

この頃、松姫は高遠城にて同腹の兄弟の仁科盛信の庇護のもとに生活しています。

武田勝頼の母が諏訪氏の出身であった事、先に嫡男たる義信が廃嫡、死去していたことなどから

信玄亡き後の武田家は徐々に弱体化していきます。そこに織田徳川連合軍が攻めてきます。

この時、兄の盛信は高遠城にて自刃、松姫は城外に逃亡しますが、高遠城を攻めていたのはなんとかつての婚約者織田信忠でした。

武田家滅亡の後、松姫のもとに信忠から迎えの使者が来、松姫は信忠に会うために京都に向かいますが、旅の途上

本能寺の変が起こり、信忠は二条新御所にて自刃します。

彼女はその年の秋、出家し武田家の菩提及び信忠の菩提を弔い一生を尼として終わったと伝えられています。


こちらが城内にあった仁科盛信の最期の戦いの模様を伝える

  案内板。

  

    この一枚の案内板の後ろにどれだけの多くの人の人生、悲しみがあったことか…。

今現在高遠城にはほとんど城の遺構と呼ばれるものはありませんでした。

特に武田氏のものは…。

 こじんまりとした、いかにも戦国時代らしい城の縄張りが残るだけで

そこに1500本のコヒガンザクラと言う特別な品種の桜が咲き誇っています。

これらの桜は明治時代に植えられたものらしいです。

先にあげた井上靖の小説ではマルセラン婦人の言葉として

『わたくしの疎開しましたのは伊那市でございますが、それは美しい所です。………

  桜の木の多いところで、春には至るところに桜の花が咲きます。……

 近くに高遠という町がありますが、そこの城址の桜は有名です。

………  千何百本かの桜の木がありまして、それがみんな花をつけるんですから、その美しさと申しましたら……』

と描写されています。この文章がきっかけで私が『いつか高遠の桜を見たい。』と尚更に思うようになりました。

今回訪問してみて、本当に桜の木が多いな、と感じました。

こちらは太鼓櫓…

 では続いて他の3か所の桜を…。