現在記述中の北欧旅行ですが、最も大切な旅の目的はかの地でホスピスを見学することでした。

でも、それ以外にどうしてもその時期に日本に居たくない個人的な事情がありました。

とんでもない、実際ありえないような話なのですが、予想外の事が起こり、一応の終息を見、安心できる状況とはなったのですが、

それでもなお不安と恐怖がぬぐい切れず

この年の夏休みの時期とっとと日本を脱出すること、言葉を変えれば所在不明としなければならない、

と決意せざるを得なかった事情があったのです。

その事件の経緯も少しづつ記載して行こう、と思います。

読む人にとっては

『本当にそんなことが起きたの。』

と疑問を抱くような事件ですが。

が、もとはと言えば私の無防備、無自覚な振る舞いの結果、

更にさかのぼれば母親のとんでもない教育から引き起こされたことだったのですが

一時期私を震撼させた事件でした。

理解頂くために事件が起こるかなり前の時点から記載することになりますが

お読み頂ければ幸いです。


 京大の医学部に合格した時期にまで話はさかのぼります。

母の死は私が33歳の年、それから三年後36歳になる年に幸運にも一般入試で京大医学部に合格することが出来ました。

母が亡くなった年は父も癌にかかっていることが発見され、香典返しから始まって母の死後の色々の整理、

それと並行して父の治療に対しての方針を立て、それを実行していく、

文字に直せば沈着冷静に円滑に物事を計らっていったかのように聞こえますが

とてもそんなものではありませんでした。

辛かったのは仕事の多さよりも長年のしがらみの中で醸されていた親族間のぶつかり合いが突然に表面化し、それに対処するための

精神的な葛藤でした。

その様な状況の中で和歌山を一時的に離れる方が自身の安定のためには適切だとも判断し

その理由も含めて京大を受験することにつながっていったのですが。

何はともあれ無事に京大に合格後の事…。


京大の入学案内を読みながら、発見したのは運が良いことにこの年から

他大学、または京大自身の他学部から編入、または卒業後入学する人間に対し

教養部の単位を認定するという制度が始まった、と言う事でした。

他の大学からの者は修得単位の半分を、京大からの者は修得単位のすべてをという条件でした。

そこで呆れるほどに前の金沢大学の履修単位を掘り起こし、

金沢大学から書類を準備して

制度を適応して頂けるように京都大学に希望を出そうと決意しました。

私が金沢大学の教養部に在籍したのは1975年から1976年の事、

京大に合格したのは1993年。なんと18年の時の流れがあります。

このはるか昔の履修単位を認定して頂けるかどうか。

とにかく、障壁を少しでも低くするために申請する単位の選定も十分に熟考しました。

医学部と関係のないもの、時の流れの影響を受けないもの、と自身で指針を設定して

科目を選定していきました。

そして選んだのは物理学、数学、法学、歴史学、文学、統計学などでした。

最終的に私の希望は叶えられ、京大で新たに修得するべき教養の単位は通常の半分で良いことになりました。

クラス担任を務めておられた教授の方からは後に

「君のケースは教授会で少し揉めたのだよ。」

とのお言葉を頂くことになりましたが。

その申請と同様に開始したのは、昔金沢大学で学んだドイツ語の学習でした。

『入学を勝ち取って喜び勇んで遊びまわれる時に、

机にしがみついてドイツ語を毎日毎日朝から晩まで勉強するなんて。

こんな事をしているのはきっと私ぐらいだろうな。』

と悲しく情けなくなりました。

しかし入学の直前にドイツ語の試験があります。

私はどうしてもその試験に合格したかったのです。

それはドイツ語についての基礎学力があることを示すための試験でした。

もしそれに合格すれば、ドイツ語は入門レベルからではなく中級、上級レベルから履修することができます。

入門レベルから学習を開始すれば、最初の一年は入門レベルに固定されてしまい、

中級レベル、上級レベルを履修することはできません。

第二外国語の学習にどうしても二年かかってしまう事になります。

しかしこの試験に合格すれば、初級も中級も上級も同時に受講することが出来るので、

第二外国語の履修を一年間で終わらせることが出来ます。

この時私が心ひそかに計画していた事は教養部を一年間で飛び級することだったのです。

一般教養の単位は半分を認定されたので、半分の一年で終わらせることができます。

そしてその計画の妨げとなる第二外国語も一年で十分だと試験に合格することを証明できれば

その企ては無理ではないと考えたのです。

計画することは簡単でしたが、ドイツ語は18年間全く使っていないし、何も覚えていません。

そして試験についての情報は全くありません。

覚えている単語は十語もありません。

微かに記憶に残っていたのはドイツ語はやはり英語に近いと言う事。

例えば『行く』が英語ではgo,ドイツ語ではgehenだったという具合です。

しかし微妙な違いは数多くあります。

ドイツ語の発音は英語と異なり、ほぼ綴り通り。

文法も微かに頭に残っているだけです。

それよりも怖いのは名詞に男性名詞、女性名詞、中性名詞の区別がある事でした。

そして動詞の位置が英語の様に決まっていず、挙句に分離したりすること。

など、などでした。

必死で単語を覚えながら、『到底合格できそうにないのに。』と諦め気持ちが湧いてくるのですが。

何とか試験の日まで勉強を続けることができました。

当日受験者は私を含めてわずかに3名。

これは医学部の学生に限った数ではなく、全学部でと言う事でした。

試験の問題をとても恐れていましたが、『単語を書け。』とかいう記憶を試すものではなく、

辞書を与えられ、それを参照して制限時間内にドイツ語の文章を日本語に訳すと言うものでした。

回答を提出後、試験を受けた部屋で採点を待つように言われ、

しばらく待っていると結果を知らされました。

なんと89点をマークしたとのことで、ドイツ語を上級から履修して良いという許可が出ました。

しかしながら医学部の面接の際には尋ねる前から、先ほどの教授から

飛び級は認めないと言われてしまいました。

がっかりしましたが、この後の父の経過を考えると飛び級をしていなくてよかったという結果になりました。

後に父の病勢が強まり、京大を休学するかどうか悩んでこの先生に相談させて頂いた時、

この方は私の事を覚えておられましたが、まさかそんな状況で京大に入学していたことに驚かれた様でした。

そして父を京大関連病院に引き取り、私が学業を続けられるように計らって下さいました。

それは私が医学部の二年生の時の事でした。ですのでもしこの時に自身の目論見の通りに、専門課程に進んでいたとしたら。

考えるだけでも恐ろしい事でした。

しかし、このドイツ語を上級コースから学習すると言う事が

後に大変なストーカー事件へとつながっていく事となっていくのです。