教材の選定、作成、塾の指導時間内の行うべきことの時間配分の作成、保護者への対応
悩んだ問題のそれぞれに徐々に回答を発見し、対応し、反応を確認し、そしてまた修正する。
そして最終的に落ち着き先を発見、決定する。
そうした繰り返しの中で、仕事は日常的に決まったものへと定まっていった。
安心を得る筈の日々であったが、私は設立の頃の苦労を過去のものとして次第に退屈を感じる様になっていった。
『何かいいことないかしら。』
この言葉が私の口から出ることが多くなってきた、と思う。
私が口にする。するとすかさず母が言う。
『そんなにたくさんのお金を儲けることができて、それ以上に良いことがあると思うの。』
と。母の視線は瞬間父に流れ、止まり、すぐさま私の顔を見つめる。
父は何も言わない。どうして母は瞬間父に視線を向けたのだろう。
そしてその母の行動に気が付きながら何も言わない父はあの時何を考えていたのだろう。
しかしあの頃、私の収入ははるかに両親を超えるものとなっていた。
収入の金額の多寡が自身の価値である様に思われ、収入を伸ばすこと、生徒父兄からの賞賛を勝ち取ることが私の目標になっていった。
指導時間内に円滑に運営が行われることが第一義の目的になり、最初の頃の分からない生徒を本当に分かるまで指導しようと
いう思いは弱くなってきたように思う。
順調に生徒を教育せねばという私の思いは口から出る言葉を強いものへと変え、
その言葉は時には両親の気持ちでさえも傷つけるものとなっていった。
母は『みっちゃん、あなたなんという言い方をしているの。』と私を嗜めることはあったが、
父は私には何も言わなかった。
幼時から私を教育していった父であった。
塾に行かせることはできなかった。書籍店にとともに足を運び参考書の選定を共に行った。
微積分でさえも自身の過去の経験からひも解いて、私と一緒に考えてくれた。
しかし、あくまでも独習であった父は私についていく事は出来なくなった。
『お父ちゃん、もういいわ。分かったから。』
だんだんに私は父を馬鹿にするようになって行った。
今から思うと、村の尋常小学校を最終学歴とした父が
高校生の理系の高度な微積分を理解したことがいかに素晴らしいことだったことか。
しかし、あの頃の私はそのことを考えることが出来なかった。
自身の望んだ方向とははずれて行こうとする私をどのような思いで見つめていたのであろう。
親でさえ見下す様になってしまった娘、その娘に対する劣等感をそれでもなお誇らしく思う気持ち、
背反する二つの感情を抱えて父の思いも単純ではなかったと思う。
母の死を経て私達家族が抱えていた矛盾はより一層明らかなものとなって来つつあった。
一連の検査を終わって東京から帰って来た父は私に
塾の経営も休んで自身の看病に専念して欲しい、と要望してきた。
しかしそれは私にとっては到底受け入れがたいものであった。
母が旅立ち、父にとって頼れるのは私だけだというのは理解できる。
しかし、自身の人生を全く無にすることと、父の看病をすることは別物だと私はこの時思った。
『これだけの財産を相続できるのだから、自身の面倒をみて欲しい。』
そう言いながら看護を要求する父に私は素早く心の中で計算する。
『自宅は確かに父と母の共同登記だけれど、母の分は私も相続しているから残りの父からの相続分は…。
そして最初に塾は開業した土地は確かに父の登記だけれど、小さいし、場所もそんなに良くないし、処分するとしたら…おそらく、
そして現在の塾の建物は私と母の共同登記だから、母からの分として父が相続したのは…。
だから父の分を相続したとしても、私の残りの人生を支える生活費用としてははるかに及ばない。
でもそれよりももっと大事なことがある。』
私は父の要請に返事をした。
『娘として親の面倒をみるのは相続とかのお金の問題じゃない。
娘としての愛情の問題だ。
そこにお金の問題を絡めていくとしたら、
私はお金よりも自分の人生が欲しい。
だから、お父ちゃんの望む形では私はお父ちゃんの事は看れない。』
私が父にぶつけた答えだった。
私達の間には冷たいとも言えない何とも言えない気まずい雰囲気が漂っていた。
私の答えに父は何も言わなかった。しかしそれだけでは終わらなかったことを私はすぐに知ることとなる。
『お前は一人残った親の面倒もみれないのか。』
叔父たちからの電話であった。私に拒否されたと解釈した父は叔父たちに
『美智子がわしの面倒をみることを拒否しているから、お前たちで面倒をみてくれ。』
と迫ったのである。
そして叔父たちは騒動のもとに何があるのか、考えようとせず
単純に私をしかりつける事、或いは説得することを選んだのであった。
父の東京への転院に母方の親類との縁が切れることを躊躇しなかったが、
状況は父の親族との関係性も考えねばならない事を私は感じていた。
和歌山に住み続けること、母の生前までの私の生活をこのまま続けることを考え直さねばならない事を私は感じていた。
私が考えているというよりも怒涛をごとく強い力を以て私を押し流そうとする人生の力であった。
小さな一端を感じ始めた時であった。
父が東京に滞在している間にも、母死後の様々の仕事を私は続けた。
仏壇を購入すること、墓石を建てる事、菩提寺との折衝、行うべき事は次から次へと頭に浮かんできた。
まず、仏壇の購入を考えた。
市内のいくつかの仏具店を尋ねてみたが、納得のできる仏壇は見つからなかった。
何を行うにしても私には経験がなかった。
30歳足らずの経験もない女の子が一人で仏壇を買おうとしている。
店の人の説明も親切で語られている言葉なのか、それともそこに別の意図があるのか見極めは全くつかなかった。
考えすぎる性格は、考えなければ単純に進むであろう事態をますます難しいものに変え、
私は状況の前で戸惑うばかりであった。
そんな時、葬儀を取り計らって下さった葬儀店の番頭の方から電話がかかって来た。
過去、葬儀を行って来た顧客が仏壇を購入した状況を見てきたが、
満足なものが購入できていないにも関わらず、法外な費用を払っている状況に葬儀を行った家を助けたいと思い
仏壇購入に手を貸すビジネスも行っているのだと、彼は説明した。
誠意を散りばめて言葉は心を打つものであったが、その言葉もどれほどに信じてよいか分からなかった。
しかし、人を疑って戸惑うばかりでは事態は進まない、もう目をつぶって彼の言葉を信じて託すしか道はないと思った。
彼の仕入れの旅に伴われて、京都の仏具商を尋ねることとなった。

