葬儀商と訪問した京都の仏壇会社は私が推測したものよりははるかに堅実な建物であった。
私の目には大きな立派な会社と映った。
信頼できる会社との判断に十分な構えであった。『営業担当者?』と推測できる人物が応対に登場した。
物腰丁寧な控えめな中年の方であった。
もう少しいい加減な取り扱いをされるものと考えていた私は重要人物扱いをされて戸惑った。
正式な手順が粛々と進んでいる印象が伝わって来た。
もっと日常的な商店の店先の様な対応を予期していた私は不安を強くした。
『気に入ったものがなかったらどうしよう…。』
とっさに心に浮かんだのはもし、気に入ったものがなかった時の最終的な判断をどのように伝えるかであった。
密かにのこのこと京都まで来てしまった事を後悔した。
葬儀社の人間は彼に私が金仏壇を探していることを短く伝えた。
『浄土宗の仏壇が金仏壇と言うのが私の理解です。どうしてもそれでなければならないというわけではないのです。
私の持っている知識など断片的な不十分なものですから。一応候補のトップにあるというだけです。
そして金仏壇といってもてらてらと金に光輝くものは私の好みではないです。』
私の求めを静かに聞いていた販売会社の方は言葉を発した。
『今、金仏壇の非常に良いものが丁度手元にあります。
注文で作ったものですがキャンセルとなってしまいました。
ご覧になりますか。』
私はためらわず『拝見したい。』と答えた。
『これだけの品物が会社に展示されている事はほとんどないです。
さるお寺からの注文品でしたが、突然注文がキャンセルとなってしまい…。』
と営業担当が言葉を少しためらわせながら説明した。
それは見事な品物であった。
どっしりとしたという表現がぴったりとするサイズで何よりも細工の美しさが今まで見たものを圧倒していた。
織り上げ天井を持ち、その細かい枠の一つ一つに極色彩の花が描かれていた。
仏壇の本体は鈍い上品な金色の光を放っていた。
『金箔仕上げではなく、金粉仕上げなのですよ。
ですのでこのような鈍い上品な光となるのです。』
と彼は仏壇の中の部分を指し示しながら違いを説明した。
『ご本尊様は白檀の一木仕上げ、衣は金糸で描かれています。額に輝く白毫はダイヤモンドです。』
手袋をはめた手で丁寧に仏壇の部分を引き出しながら彼は説明を続けた。
地元の仏具店で見たものとはすべてに異なっていた。
『仏壇のサイズや使う金額について何かしきたりの様なものはありますか。』
彼は私の質問に戸惑った顔を見せた。
仏壇の事ではなく、仏壇を購入する際のしきたりについて尋ねられることを彼は予期していなかったのであろう。
『新しい仏壇を購入するのは亡くなった人のために新しく家を建てるようなものだと聞きました。
それであれば亡くなった母に少しでも安楽な大きな快適な家を建ててあげたい。
それが私の希望です。』
一気に言い切った。
営業担当は
『特に何もしきたりはないですよ。お気に入られたものをご購入いただければ…。』
私は完全にこの仏壇に魅せられていた。
『これが欲しい。』
と強く思った。ここで私は価格交渉に乗り出してはいけない、と思うだけの良識はあった。
京都に来る前に行く場所は卸商と聞かされていた。
値段は葬儀者の人間の口を通して聞かせられなければならない。
後に葬儀社の方が伝えてくれた値段は地元の仏壇店の金仏壇の値段とそれほどに変わらないものであった。
その値段を聞いて、瞬間『買える。』と思った。
今しばらく仕上げの細工を施した後、納品が可能とのことであった。
特別注文品と言う事であったので、他の注文者に押さえられないか不安に思い慌てて支払いを行った。
単純だったと思う、だまそうとすれば簡単に騙せただろう、しかし信じるしか方法はなかった。
京都の製造元から直接納入されるという仏壇に、お弁当、紅白の祝儀の袋を用意した。
仏壇が納入されると言う事は亡くなった人の家を用意することなのだから不祝儀ではなく祝儀なのだと説明されたから。
何もかもが初めての経験だった。
そして戸惑う事も多かった。
その戸惑いを所有している金銭で埋めようと努力した。
貧しい暮らしを何とか人並みの水準までと努力した母、その努力に応えるために費やす金銭は無駄な物とは思えなかった。
しかし父の反対を恐れて詳しい金額を父には教えなかった。
自分が支払うのだから自分だけが納得していればよいとの気持ちだった。
しかしそれは結果的には父を踏みつけるものであった。
そして家に出入りする様々の業者の方も同じような対応に変化していった。
『お嬢様がいらっしゃらない。ではまた後程の出直しますね。』
訪問した用件の内容も父に語らず、私が行っていることはすべて父の前を通り過ぎていった。
それは仏間を作るという仕事の時も同じであった。
父が次男であったために、私達の自宅には仏間と呼ばれるものがなかった。
その当時住んでいた自宅は丁度私が大学時代に建てられたものであったが、仏間と呼ばれるような部屋を作ろうという考えはなかった。
貧のままに大阪から引き揚げた両親が初めて自身のための家の所有と言う仕事に乗り出したのは私が10歳の頃の事であった。
地元の建築会社の開発の土地を手に入れて、初めての自宅の建設に乗り出した。
当初は母の希望により母の生家近くの大工の手による建築を目指していた。
が、水道の敷設が地元の建築会社によるものであった。
その会社に建築を注文する場合には水道管を無料で使用することが出来たが
他社に依頼する場合には敷設料の一部を負担する要があった。
そしてその余分な負担金を支払う余裕は両親にはなかった。
母にとっては非常に不本意な事であったが、その会社に建設を依頼せざるを得ない結果となった。
建設された家は雨の時には雨漏りがし、後ろの空き地は排水が不十分なために池の様に水が溜まることとなった。
その家の建築に伴う不本意な思いが母をして二度目の建築に思いを掛けることとなった。
地元の母の友人の大工よりその方の師匠と言う宮大工の流れを汲む大工の棟梁が紹介された。
奈良にて木材を買い付け、その木材を所有の倉庫で十分に乾燥させた後、
使用するという大工の方の建てた家は確かに見事なものであった。
美しい節のほとんど見られない檜の角材が更に丁寧に鉋を掛けたものが使われ、
閉められた建具は柱に上から下まで隙間なくびしっと添うありさまであった。
私が金沢に生活していた時でもあり、無為に費用をかける余裕はなかったが
日本の古くからの伝統を体現した自宅は小さいけれど、
美しい建築であった。
その家に仏間を作らなければならない事となった。
運の良いことに一階に二間続きの和室があり、その大きい方の部屋には一間の床と一軒の押入れがあった。
この床か押入れのどちらかを潰せば仏間を作ることが出来るのではないか、と私は思った。
大工の棟梁の方に連絡をとってみると彼は既に亡くなられていたが、
別に会社を設立して活動している御弟子の方を差し向けて頂けるとの奥様の言葉であった。
『一間の押入れを潰して仏間を作りましょう。
半分は仏間に、半分は押し入れにと言う事で残しましょう。』
彼は自身の棟梁が建てた建築を懐かしそうに眺めながらそう言った。
この家の畳の大きさは完全な本間誂え、関西間或いは京間とも言われる一番大きいものであった。
彼の言葉通り、半間の仏間でもそれなりの大きさはありました。
しかし私の中には京都で見た仏壇の印象がありました。
いくつか陳列されている中でひときわに目立っていた大きさと意匠。
『もしかしたら半分では不十分かも…。』
私は職人の方の怒りを買わない様に恐る恐る口にしました。
『もう仏壇は購入しているので。これが京都の会社の電話番号で。
すいませんが大きさ等連絡をしながら話を進めて頂けませんか。私は詳しい事は分からないので。』
そして費用の事も懸念事項でした。
この事の少し前に叔母の家でも仏間を作ると言う事がありました。
親類の方が労をとったという仏間は恐ろしい値段でした。
しかし、私達の家は宮大工の方が作った檜作り。
多分棟梁の遺された作品の品格を毀さない様にお弟子の方は最高の木材を使用するでしょう。
でも彼の意図に反対を口にすれば、職人の方の頑固さゆえに仕事を拒否するかもしれません。
私は諦めて、一切費用の事は口にしない方が賢明だろうと決めました。
こうした葛藤の間、私は一切の事を父の耳に入れませんでした。
父の家でありながら、父の耳に入れない不条理さは感じていました。
しかし残念ながら父の意見を聞けば物事を複雑にしてしまうと思いました。
ぐっと息を殺してこのまま駆け抜ける事を新たに心に誓いました。


