父は母がこのような病気になったのは本来あるべきでない母実家の仏壇が私達の家にあるから、先祖の祟りのためだという考えにこの頃とりつかれていた。母が回復するためには、母の病気の元凶となっている母方の仏壇を私たちの自宅から除かねばならないというのが父の考えであった。

 母の両親を含めた先祖一家の仏壇が私達の家にあった理由は自身の母の最後に対する母の強い悔いのためであった。祖母は私が22歳の時に世間的に老人病院と呼ばれる施設で亡くなった。身体状況よりも主たる介護者がいない、あるいは介護者が積極的に介護に携わろうとしない等の事情が優先して入院する個人病院であった。祖父は『種子は一人では暮らすことができない。だからもし種子が一人で残されることがあれば、あいつを頼む。』と常々母に言い残していた。母は特に祖父が好きであったから、祖父の言葉を重く受け止めていた。

 しかし、祖父の死後、父の祖母に対する態度は微妙に変わった。『自分は婿養子ではない。』と口にするようになり、祖母への態度は微妙に冷たいものとなった。交わす言葉も毒のあるものとなった。祖母が好きな時代劇のテレビを見ていると『僕はそんな番組は嫌いだ。』と口にし、祖母の楽しみを否定するようになった。ある年の1月、正月の残り物の餅を食べて下痢をした祖母は父の手配により病院に入院した。体調を回復した後もその病院での入院生活は続いた。さみしがり屋の祖母は回復後退院し、私達家族との生活を強く望んだ。その祖母の希望に対して父は『美愛子の姉が僕に正式に依頼をするのであれば、祖母を受け入れる。』とあくまで叔母が父に正式に依頼することを要求した。しかし叔母は『祖母の世話をして損をすることはないのだから、私は頭を下げない。』と父に依頼することを頑固に拒否した。

父と叔母の意地の張り合いの犠牲となったのは祖母であった。叔母も父に正式に依頼することをしない。父は自身は看護すべき立場の人間でないから叔母が自身に依頼しなければ受け入れない、と主張し、結果祖母の入院生活は続くこととなった。そんな祖母の身をあの世から見るに忍びないと祖父は考えたのか、秋の彼岸の日に朝食を食べながら心筋梗塞にて祖母はこの世を去った。偶然にその前日祖母は病院からタクシーで私達の自宅を突然訪問し、『すべての財産を五味さんに残すように弁護士に依頼し書類を作成するのでどうかこの家に私を置いて欲しい。』と母に頼んだ。母にとって父と叔母の意地の張り合いに巻き込まれることを本意でなかったし、父に祖母のことを面倒看させてくれと依頼することも避けた。

 結果そのままタクシーにて祖母は病院に送り帰された。その翌日の祖母の死であった。母は生涯にわたりこの日のことを後悔することとなった。そのせめてものつぐないとして祖母亡きあと、祖父の家にあった仏壇を父の同意のもと自分の家に運び込んだ。母には実弟があったが、幼少時より祖母の里方に養子に出され、祖母たちとの関係は冷めたものであった。四十九日の法要までは仏壇は私達の家にあったが、その後当初の取り決め通りに叔父の家に運ばれた。しかし、仏壇は顧みられることなくそのままに放置されることとなった。その状況を憂えた父は仏壇を自分たちの家に運ぶことを自身から提案した。その後、仏壇は私達の家に置かれたままとなった。

 自分は婿養子ではないと口にする父の気持ちを尊重し、母は自身がその仏壇を触ることはできるだけ避け私が仏壇の世話をすることとなった。その状況のままに十数年が経過し、その年月の間叔母たちも私達の家へと仏壇詣りに訪れる習わしとなっていた。しかし叔母たちがその父の労に礼を述べることはなかった。その状況が母の病状により、父の怒りを買うこととなった。父は叔母に仏壇を自分の家から他の場所に移すように求めた。伯母は菩提寺と連絡を取り、僧侶が私達の家に来る日が決められた。しかしそれだけのことを決めながら、叔母は父に長年に亘る世話に対して礼を言うこともまして仏壇が運び出される日を告げることもなかった。

 私は傍観者を決め込みながら、父の要求も褒められたものではないが、叔母の行動も配慮に欠けたものだと考えていた。この状況に一番の当事者である母は『あの人が言うのだから、仏壇を運び出すのは仕方がないわよね。』悲しそうに自身を説き聞かそうとでもするかのように言葉を詰まらせながら、私に同意を求めていた。母の悲しそうな顔を見て、この状況下に母の気持ちを鑑みない父にも憤りを感じたし、また父にきちんと礼を尽くさない叔母にも納得しない気持ちを感じていた。母が死ぬ前に少しでも悲しんで欲しくないという気持ちでこの仏壇の運び出しをつぶすことを私は決心した。それは父に一言、『おばあちゃんが泣いている夢を見たよ。』と伝えるだけで充分であった。その言葉に震え上がった父は菩提寺に自身で電話をかけ、仏壇の運び出しをしばらく待って欲しい、と頼み込んだ。伯母が運び出しについて父の意見を聞かなかったのと同様に父も叔母の動きを潰すことに叔母の意向を聞くこともなかった。叔母は怒り、その怒りは従姉妹を通して私に伝えられた。伯母が怒っている、折角父が言ったとおりに調節したのにと言う従姉妹の言葉を聞きながら、仮にも当方の家中にあるものを運び出すということをどうして父に了解を取らない、と私はいぶかしく父と叔母の意地の張り合いを目撃していた。そしてそれを叔母の言うままに伝えてくる従姉妹も、不遜ながら馬鹿じゃない、と考えていたが言葉には何も出さなかった。

この頃はすべてのことに齟齬が起こり、それぞれの積み重ねた思惑がぶつかり合い、ゆっくりと壊れて行っていた。それを止める方法はなく、せめて母の死までは少しでも現況のままに流れてほしい、と言うのが私の願いであった。