魔女狩りが起きた頃、西ヨーロッパは中世期終末より近代への過渡期であり、人々が非常に精神的に不安定な時期でした。
こうした社会的混沌状態が始まった時代と魔女狩り、及びにその処刑が始まった時代とが一致しているわけです。
ペストの流行によりヨーロッパの25%から30%の人々が死亡、
更に戦争、疾病の蔓延、旧教から新教へのシフト等々の社会的変化及び旧来の状況の両方が相まって人々を精神的に不安定な状態へと追い込んでいきました。
社会的にパニック状態の中で何らかの身代わりとなる犠牲者、責任を転嫁する先スケープゴートが必要であったわけです。
ローマ帝国が支配的であった時にはキリスト教がスケープゴートであったわけですが、キリスト教が力を得て後は異教信仰へとその対象が移行しました。
前述の表に示した通り、女性が魔女狩り裁判において多くは犠牲になったとは言え、圧倒的に女性だけをターゲットにしたものではなかったのです。
例えば、フランスにおいて魔女狩り裁判にかけられた1300名のうちの半数は男性であったというデータが残っています。
そうした社会的に不安定な状況が魔女狩りの素地となったと考えていく時、当然社会的弱者がスケープゴートとして選ばれていったわけです。
結果、近代の初期の頃ヨーロッパにおいて魔女狩り裁判に告発され、有罪判決を受けた者(おそらく処刑された者)の75%から80%は女性でした。
ではどうして女性がターゲットになったのでしょうか。
13世紀の始まりとともに、経済的、人口動勢、家族構造の変化が始まり、結果として女性の役割が変化していきます。
未婚の女性が増加し、加えて女性の方が男性よりも比較的長命であることから寡婦となった女性に対する社会的疎外が
女性を魔女狩りに結びつけていったのではないかと結論されているようです。

私が暮らしたエクセターと言う街の
最も賑わいのある通りから歩いて数分の所にある歴史的建造物が残っています。
城塞門ハウス(Castle Gate House)と呼ばれ、
11世紀にウイリアム征服王にて建設されたと
伝えられています。その左側の壁に次の碑文を見ることができます。
書かれていることは…。
デボン州における魔女の記憶として
Temperance Lloyd,
Susannah Edwards,
Mary Trembles
の三名の者がbidefordと言う街で処刑、死亡した。
Alice Mollandは1685年に死亡した。
イングランドにおける最後の魔女狩りとしてこの地で裁判、Heavitreeで絞首刑に処された人々である。
迫害及び不寛容が終了することを希望して…。

この碑文を眺めると、魔女狩りにおいて人々が狂乱状態であり、社会的ヒステリーの中で起きたことに対しての後悔が穏やかな文章の中に込められているように感じるのは私だけでしょうか….。
続いて私が担当した魔女狩りと医学との関わりについて書いて行きます♪