本日、クリニックの休診日を利用して和歌山県の新宮、那智勝浦から田辺へと弾丸巡りをして来ました。

訪問場所のそれぞれについて語ろうと考えている話はほぼ固まっているのですが、話を意味深い理解しやすいものとするためには写真があった方が

いいかな、と思いました。

写真を撮るためだけに新宮等々まで出かけることとなりました。

語りたい話はいくつかあるのだけれども、まずそのうちの一つから…。

場所は勝浦、訪ねたのは補陀落山寺(ふだらくさんじ)。

この寺に古くから行われていた荒行の秘儀、住職が老年に達すると生きたまま船に乗せて海に漕ぎ出す、というもの。

日本古来の形をした船に屋形を載せ、その中に僧を閉じ込め、海の果てにある観音浄土、補陀落浄土を目出すという趣旨。

船にはおよそ一か月間の食料が積まれるもの、船の乗員としては屋形の中に閉じ込められた僧一人、船頭もいない。

海上で餓死するか(とものの本には書いているのだけれど、一か月狭い部屋に閉じ込められて一人で海上で生活できるのか、精神的におかしくなって海に飛び込む方が早いだろう、と私は思う。)

或いは船が砕け散って海に投げ出されて一生を終わる…というのがこの航海の当然の帰結。

中学生の時に読んだ井上 靖の小説『補陀落渡海記』を通して私はこの宗教歴史について知ったのだけれど、

那智勝浦以外にも四国や九州の一部で行われた記録が伝承されているらしい。

井上靖の小説は実在した金光坊という名の僧が周囲の圧力から追い詰められ補陀落渡海をせざるを得ない状況に追い込まれていく過程の彼の心理状況が中心となって

描写されている。彼は僧としてではなく、普通の人間として死を恐れる者として描かれている。

結局、自身の覚悟のないままに船出した金光坊は沖で体当たりで屋形を毀し、板子一枚で沖合の島に流れ着く

が、周りの人間の相談の結果、急遽屋形船が用意され、押し込まれ、海に押し出され、命を落とすというあらすじになっている。

この彼の事件以後、生きたまま船出することはなくなり、住職物故後遺骸を水葬する形に変わった、

そして彼が流れ着いた島は金光坊島と名前を付けられた、と説明する。

これが補陀落渡海に使われた屋形船…。

   勿論復元です。

先頭に南無阿弥陀仏の旗を立て、横の4面に鳥居を立て、後尾に僧に対しての供え物を…。(でもどうして仏教儀式なのに、鳥居なのだろう?説明を読んでも分かりません。)

 船上三角形の部分は僧が乗った部分、窓は後尾に一つ、

  でもその窓から手を伸ばしても供えられた、酒、供物に手は届かない…様に思われる。(と言うか私の様に供物に手を伸ばすという品の悪いことはしないか…)

 井上靖の小説を読んだ感想ではもっと小さい船を想像したのだけれど、実物の復元を見ると結構大きいのに驚いた。

  で、その気持ちのままに主人に『これが使われた舟らしいけれどどう思う?』

 と尋ねた所、『こんな立派な船を海に沈めてしまうとはなんと無駄なことをするんだ。』

という返事。で、その返事を聞いて

 『そこに行くか!!

あなたに聞いたのが間違っていました。

外国人たるあなたと私とでは全く考えることの基盤が違っていること、忘れていました。』

と心のなかで、つぶやいた。

このお寺には

左側の写真、お寺の裏山に、

右の写真に示す様に補陀落渡海行い亡くなった僧たちの供養塔

及び平維盛、二位の尼の時子の供養塔が祀られている、らしい…。

平維盛(たいらのこれもり)は護摩壇山にて平家の行く末を占った後、その結果に絶望して熊野の海に投身自殺をしたと伝えられている。

また時子は壇ノ浦の合戦で平家の運命が決まった時、孫の安徳天皇を抱いて海に身を投げたと伝えられる。

いずれも遺骸がここに埋葬されているわけではなく、供養塔だけだろうけれど不本意な形で人生を終わらせることしかできなかった悲しい人々の安逸を乱すことはしてはいけない、と思い50m手前でUターン。

以上、補陀落山寺でした…。