ご心配をおかけした主人の感冒も無事良くなって、
今日は先週とは違って天気もまあまあ良かろうと言う事でまたまた京都に出かけました。
1月9日から3月18日まで、『京都の冬の旅』と言う事で通常は公開していない文化財を特別公開しています。
今年のNHKの大河ドラマが「豊臣兄弟!」と言う事で豊臣秀吉、豊臣秀長に関係した場所が公開の対象となっています。
場所は計13か所、そんなに多くも訪問できるわけもなく、費用ももったいないので選択して4か所、行って来ました。
それがタイトルの東寺五重塔、方広寺、大徳寺、醍醐三宝院の4か所となったわけです。
自身の興味と主人の好きなものと言う二つの観点から選んだのですが、
文化財写真が撮れない場所が多くて視覚的に訴える写真が少ないのが残念です。
まずは京都駅に到着して、そこから徒歩で東寺へ。
これは私自身の興味で、新幹線に乗ると東寺の五重塔は良く見えるけれど、
『一体あの中はどうなっているのだろう。』と言う疑問に答えるための訪問。

東寺五重塔、少し離れた場所から前に梅園を配した写真
こちらは屋根の下に存在する邪鬼


こちらの写真はもう少し近づいて梅園の梅の鑑賞もできる写真♪
しかし残念ながら肝心の五重塔の初層内部は写真不可なので、記録なし。
仕方がないので東寺のインターネットより

と言う見事に極彩色の世界が広がっていました。
この状況が四面ともに広がっていました。
細かい装飾、細工が非常に見事でした。
このほかに金堂、法堂も鑑賞したのですが、そこも写真不可で残念ながら鑑賞して頂く写真はないのです。
次に、ここから一部バスを使い、歩きもして訪問した場所は方広寺。
ここも私の趣味…。方広寺は七條通りの北にある京都国立博物館の北にある寺院。
豊臣秀吉により建設され、奈良の大仏より4mも大きい19mの高さの大仏があったと伝えられています。
刀狩りで徴収した武具を以て大仏を作るという触れ込みだったので
その時の民衆は鉄製のものを大仏、梵鐘をつくるために拠出したのですが
さてどちらが秀吉の本当の目的であったのか???
しかし完成の次の年、地震にて損壊してしまいます。そして次も落雷による火災のために完成せず。
その間に秀吉は亡くなってしまいます。
この間に天下の大勢は徳川方に移り、大阪方は一有力大名となっています。
徳川家康は淀君及び秀頼に秀吉の菩提を弔うために神社仏閣の修復を促します。
さて私達が本堂で特別拝観の現在残る10分の1のサイズの廬舎那仏像を見ていた時、
その像の前の説明書きとして
『徳川家康も協力して、秀吉の菩提を弔うために本堂を建て、大仏を再建し、梵鐘を鋳造したんです。』
と書かれてありました。それを読まれた他の観光客の方が
『この時は仲が良かったのにね…。』
とおっしゃられました。で、馬鹿な私はつい不要な事を言ってしまいました。
『そんな単純なものではないですよ。徳川家康の意図は大阪方の戦費を費やさせるためにそうした造営を勧めたのですよ。
近い将来、戦を起こさせることを予想してそんな布石を勧めたのですよ。そして最後に梵鐘の銘文に文句をつけて来たのです。』
言ってしまってから、『あ~あまたやってしまった!』とため息。

こちらが方広寺の鐘楼です。

上記写真の白く塗られている部分が問題の銘文です。

拡大して左の写真です。
見てわかる様にぎっしりと書かれた文字の中のたった8文字。
書かれているのは
国家安康
君臣豊楽
『よくこの長い銘文の中から見つけたな。』と感心します。
家康が主張したと言われるのは、
まず国家安康ですが家康の名前を分断している、家康を呪う意図があったに違いない。
次いで君臣豊楽ですが漢文の読み方をすると、豊臣を君(きみ)として楽しむ、つまり豊臣の繁栄を願っている。
この銘文についても色々の説があり、家康の顧問であり、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝が初めに問題として指摘して
家康にそのことを教えたとも、裏からこの銘文を作らせるように働きかけた、それから文句をつけたともいわれていますが、
いずれも確証はありません。
いずれにしても結果として大阪冬の陣へとつながり、
豊臣氏の滅亡へと歴史は進んでいきます。
ためにこの梵鐘は淀君の幽霊に取りつかれていると言われているそうです。
これは鐘の内部の写真ですが、緑の矢印で示した丸い部分が
女性の顔に見える、淀君の顔だと言われているそうですが
いかがでしょうか。

この梵鐘は日本三大梵鐘の一つであり、大きい梵鐘としては知恩院が有名ですが
それよりも重いとされています。
知恩院は年末に多くの僧で鐘をつく光景が放送されることで有名ですが、この梵鐘は一人でつくことができるそうです。
また多くの梵鐘が第二次世界大戦の間に拠出されたそうですが、この梵鐘は重さゆえに運び出すことが不可能であり拠出を免れたとか…。
人生すべからく何が功を奏するかわかりません…。






これらは鐘楼の天井絵ですが、伏見城の女中の化粧室の天井画だったそうです。
伏見城と言えば、関ヶ原の戦いの時に家康の家臣の鳥居元忠が守っていましたが、真っ先に大阪方の攻撃を受けて多数の徳川方の侍が討ち死にした城ですが
その城の天井板を供養を兼ねて鐘楼の天井に用いたのでしょうか??
少し、理解し難い再利用です??


