ある日、病院から連絡が来た。ドクターが私に説明することがあると。
ドクターとの話し合いにと私が指定された診察室に近づくと部屋の外の廊下をうろうろと歩いている父の姿を目撃した。
瞬間、まだ父に自身の病気について知らせるのは時期尚早との判断が湧き上がり、私は父から姿の見えない物陰に身を隠した。
父の姿が見えなくなるのを確認して、ドクターの待つ部屋のドアをノックした。
まず、ドクターは私に『父は肝臓がんである。』と語った。
当時まだC型肝炎と言う言葉はなかった。A型でもない、B型でもない肝炎からの肝癌との説明であった。
そして
『肝臓がんは手術ができないから、癌に酸素、栄養分を供給する動脈を閉じる肝動脈塞栓法と言う比較的新しい治療法を明日診断を兼ねて試みる予定だ。』
と語った。
『お願いします。』
と言葉を返しながら、心の中で
『さて、これからどうすればいいのだろう。』
と自身に問いかけた。そして『今、考えていることはドクターに気が付かれてはいけない。』
と自身の表情は何かを告げていないだろうか、ドクターに対しての不遜な思いを悟らせてはいないだろうかと、不安に思った。
自宅に帰って机に座って考えても
『その肝動脈塞栓法をこのまま受けて良いものだろうか。でもまだ癌についての紹介状も手にできてはいない。国立がんセンターに行くことはできない。
私は一体どうすればいいのだろう。』
と進むべき方向は全く分からなかった。
叔母からは
『あの先生にお任せしておきなさい。一番良い方法を考えて下さるから。』
と励ましとも、私の行動を抑えるためともとれるような電話がかかって来た。
しかしその言葉が信用のできないものであることは母で経験済みだった。もはや心の内を見せて叔母に相談することはできなかった。
思いあぐねて、東京に電話を掛けることを決心した。
予想を超えて彼は私からの電話に出て下さった。
まず私は『母の死をお知らせした手紙を読んで頂けましたでしょうか。』の言葉で口を切った。
彼は読んだ、と言う答え。
『その節は大変お世話になりました。先生のご指導の御蔭で母の看病に思いを尽くすことができました。
続いて父の肝臓癌について検査データを含めて送らせて頂いたのですが、そちらはいかがでしょうか。』
いえ、その手紙はまだ読んでいません、との返事。『実は今度は父が肝臓がんらしいのです。』
この私の言葉に彼は『おや、おや。』と言葉を発した。彼の驚きは感じつつ私は言葉を続けた。
『私は父を失えばこの世に本当に一人ぼっちになってしまいます。何とかして父を助けたいのです。先生のお力をお借りしたいのです。』
私の言葉に彼は『私が関わったことで治療の順番が変わるということはありませんよ。多くの患者さんが手術などを待っています。その順序が早くすることはできませんよ。』
『そんな大それたことは望んでいません。母は遅すぎましたが、父はぜひ先生に診て欲しい。いま望んでいるのはただそれだけです。』と縋った。私の声は震えていた。受話器を持つ手も震えていた。目は何も考えず、机の上に置かれた本のタイトルを見ていた。なぜ今ここにこんな本を置いているのだろうと脈絡なく考えていた。長い時間に思われたが、おそらく彼はすぐに会話を続けてくださったのであろう。
『医師として診て欲しいという患者を拒否することはできませんよ。今どういう状態でしょうか。』
ああ門が開く、私達はがんセンターに行くことができる、かもしれないと思った。
『先生のもとに行こうとして癌の確定診断のために今母が亡くなった病院に入院しております。明日塞栓術を予定していると説明されています。』
と言葉を発して、しまった。明日塞栓術を予定していると言ってしまったことは失敗ではないだろうか。そんなことを言ってしまったことがこの先生を怒らせることにはならないだろうか、私の不安が再び強くなる。
『その手技は能力の低い病院で受けると後の処置が非常に難しくなります。こちらに来るつもりであればその治療を受けずに今すぐ来なさい。その状況で動けばそちらの病院から紹介状が出ないかもしれない。でも私が必ず引き受けます。心配せずにこちらに来なさい。』
驚く彼の言葉だった。『間一髪であった。』と私は胸をなでおろした。そして言葉をつなぐ。
『わかりました。必ずお伺いします。どうか父をお願いします。』
東京から引き受けると言う保障が取れた以上、もはや地元の病院に入院している必要はない。と言うよりこのまま入院を継続すれば、和歌山で受けない方がいいと言われた塞栓術が行われてしまうかもしれなかった。
即座に父を退院させねばならない。私は父を入院させている病院にあわてて向かった。病院に着くと私は友人が東京に良い病院を見つけてくれたから、そちらに向かうよ、すぐに退院の準備をしてほしいと父に伝えた。父はもともとに入院している病院、母が死亡した病院が本意ではなかったから、転院することに依存はなかった。喜んで退院の準備のための荷物整理を始めた。
続いて私は詰め所に行き、今すぐに退院させてほしいと申し出た。主治医はまず私の行動の意味が分からない、と言った。父が入院していた科は長年にわたり、叔母が勤務していた部門であり、父の主治医はその伯母の娘の高校時代の同級生であった。地元の小さな都市では血縁、知縁が複雑に絡み合っていた。前回母の時はそれらにあまりに縛られすぎて私達は一番大事なものを失ってしまった。その父の主治医は主治医なりに私達に配慮しているつもりであっただろう。伯母も『あの先生にお任せしなさい。悪い様には絶対にしないであろうから。一番良い方法を考えてくれるから。』と私に語っていた。しかし、その配慮にとらわれて私達は母を失ってしまった。同じ轍を二度と冒すつもりはなかった。伯母の言葉も信じるつもりはなかった。どこかの段階で早期に東京に行くつもりであった。今、母のことが機縁となって東京に大きなまっすぐに伸びる道が開かれた。私はその道を歩いていくつもりであった。今度は叔母を含めて私達の行動を曇らせたものに斟酌することなく行動しようと決めていた。
医師の意向に逆らい真っ向から彼の意図を否定する私に詰所の看護師達は刺すような冷たい視線を投げかけていた。主治医は怒り、それを隠そうとはしなかった。東京のドクターが事前に予想し、私に指示したとおり父が入院していた病院からは紹介状は出なかった。
自宅に帰り東京行きの準備をしている私を追いかけて叔母から電話が掛かってきた。『今後、叔母でも姪でもない。そのつもりで。』と言われた。『東京なんかに行ってもかかる病院を見つけられないままに時間がたってしまって手遅れになるのよ。』と言ってきた。とうとう叔母との縁は切れていく。それは私が望んでいる事なのだろうか。それとも母が望んだことなのだろうか。
後、父の兄は彼の次女とともに叔母の所に私の行動を謝罪に行くと伝えてきていた。後、叔母との会話を私に伝えてきた。叔母は『何かがあった時にはあの病院を頼らないといけないのにあの子はすべてをだめにして。』と叔父に苦情を言ったという。『誰も頼んでいないのに余計なことを。』と言うのが叔父の行動に対する私の感想だった。そう思いながら、叔父の立場としてそのような行動をとるしか方法がないのだろうとも思えた。それを理解しつつ、叔父に私の感想を言うのは酷だと思った。小さな地方都市で、色々の人に気を遣いながら人生を送ってきた人々、彼らが生きてきた道筋を思えば到底私がやろうとすることは理解できないであろう。母方からの親族からは労力を含めて今後援助を提供しないとの伝言が届いていた。父方からは東京みたいな遠方には自分たちはいけない、あてにしないでくれ、との話が伝わってきた。そのような逆風は予期していた。もはやそれに屈するつもりはなかった。
しかし東京で万が一のことが起きれば、和歌山には帰ってくることはできないだろう、と考えた。彼らはきっと私を袋叩きにするに違いない。『それをみたか、私達の言うとおりにしないから。』と私を責める彼らの顔を簡単に想像することができた。私は急いで財産の目録と遺言書を書き、家の中に隠し、そのことを友人につたえ、万が一の時にはそこに書かれているように取り図ってほしい、と伝えた。家を含め、両親の労苦の賜物をなし崩しに親類たちに思い通りにさせる気は絶対になかった。そして父の退院の翌翌日、父と私は二人だけで東京に向かった。


